初恋のおわりのうた 第四話 ─それは私の恋が終わった日─

 

〈電車 夜〉

 車窓の黒を高速で走る光たちを無心で眺めている。レールの上を走る車輪の振動と音が足元から疲れた脳まで伝わってくる。

 文化祭の前日の夜。合わせの練習を終えて帰りの電車に揺られながらアステガは、終ぞこの日まで叶わなかった望みとそれに伴う迷いとに直面していた。

 明日の本番を迎えるにあたっての憂いはない。やるだけのことはやってきたし、これでトチったのならば自分達はそこまでの人間だったのだと割り切れる。

 だからこそか、或いはこれもするべき努力の内だと内心では感じているのか。残り数日になってから、どうせなら録画ではなく直接ユリアに自分達が成すことを見てもらった方がいいのではないかと思い始めていた。

 どちらにせよ結果は同じだというのに。頭ではそう理解しているのに。

 ──思えば、ユリアが引きこもってからの自分の言動は理屈に合わないものばかりだ。

 自分をおかしくさせるこの苛立ちにも似た衝動は一体何なのか。それを知るために行動を起こしたというのに、未だに少しも解読できずにいる。

 車窓の黒に反射して映る顔を見て問うた。

 この予感もその衝動から来るものなんだな?

 車内に自宅から最寄りの駅への到着を告げるアナウンスが流れる。列車が停止し、眼前の扉が開いた。

 駅のホームへと降り立つ。オウカ町のベッドタウンの夜らしく、その日の営みを終えた人々が次々とあとに続く。

 その流れを止めないようにホーム中央に置かれたベンチへ向かい、そして背にしたギターの存在を思い出す。腰掛けずに辺りの有象無象が掃けて静寂が訪れるのを待った。

 結局、今日までユリアと話をしようととった行動が成果を結ぶことはなかった。通信デバイスで電話してもメッセージ機能を使っても全て無視。直接話そうと家を訪ねても門前払い。

 もはや自分には打つ手はなかった。自分では駄目なのだ。

 ……そう、自分では。

 辺りの人影がまばらになった。通信デバイスで電話帳を開き、表示された中から久しく触れることのなかった名前を選択する。

 発信する前に、他に手段がないか改めて思案する。

 残念ながら妙案は浮かばない。

 発信。

 コール音が一度、二度、三度鳴ったあとで、できるなら聞きたくはなかった声が耳に届いた。

「アステガかい?君から電話なんて珍しいね」

「親父、無理を承知で頼みたいことがある」

 

〈ユリアの私室 朝〉

 寝不足の朝。着信の振動音で目が覚めて、目に映った名前で意識が冴えた。

 アヅキ・ルドベキア

 そう描かれた通信デバイスの画面に、しかしユリアは応答できずにいる。

 昔アステガから聞き出して電話帳に登録したアヅキの番号。だがユリアは一度もその番号に電話を掛けたことはなかった。つまり誰かに教えてもらいでもしない限り自分の番号を彼が知ることはないのだ。

 理由は置いておいて思いついた経緯は二つ。アステガがアヅキに教えたのか。もしくはアヅキがアステガから──

 戸惑っている間に振動音が止む。不在着信のお知らせが無機質に画面に映る。

 

 ……今、私は何を期待しようとしたのだろう。

 

 終わった恋はもう過去のものになろうとしていた。

 自分を見つめなおす時間だけはたっぷりあった。あの恋がいったいどういうものだったのか、何故破れてしまったのか、ユリアは既にそれらに結論と納得を導き出していた。

 今も引きこもりを続けているのは悲嘆に暮れているわけでもそんな自分に酔っているわけでもなく、ただ単にやめない理由がないからだった。ここ十年近くアヅキへの恋のみを原動力として生きてきた以上、それがなくなってしまえば当然元の生活はどうでもよくなる。

 恋心を抱く前の自分がどうだったかなんて覚えてられないほどに昔のことで、未来を思い描く方法なんて忘れて久しいユリアには、今生じた空っぽの時間をただ持て余すことしかできずにいたのだ。

 そんな状態の自分はそれでもこの着信を福音ととらえてしまったらしい。長い長い恋煩いは、習慣という呪いで心を染めてしまったようだ。

「わざわざ電話してくれた用事を聞くくらい」とか「かけてきた電話に返事を返さないのも失礼だし」とか、言い訳がましい言葉を頭に並べたてながら、画面に表示された不在着信のお知らせをタップする。

 高揚して頬を緩めてしまう自分が心底気持ち悪かった。

 フラれた自分が今更彼に何を期待できるのだろう。

 現実を見ればそうでも目の前に『彼がいる』と理解すれば目で追ってしまうのも、憎らしいほどに自分だった。

 発信する前に、深呼吸を一回。二回。

 そしてまた似たような言い訳を頭に並べて、三回。

 発信。

 コール音が一度、二度、三度鳴ったあとで、聞きたくてたまらなかった声が耳に届いた。

「もしもし、アヅキです。ユリアちゃん?」

「はい」

 久しく使っていなかった声帯が上ずった声を鳴らす。それが恥ずかしくなって頭が真っ白になり、返事以外の会話方法を忘れてしまう。

「よかった、繋がって。折り返してくれてありがとう。今お話大丈夫かな?」

「い、いえ、はい」

「今日、桜花大学院の文化祭なんだってね。アステガが見せたいものがあるって言ってるんだけど、君がよかったら一緒に行かないか?」

「は───え───?」

 言葉の意味を飲み込むのにタイムラグがあった。反応が言葉にならない。

『“アステガが見せたいものがあると言うから”一緒に行かないか』──?

 その言葉が示すのは、先程思いついた二つの経緯のうち、前者が正解だったという事実で──

 彼が用があるのは自分ではなくアステガの方で、自分はただその用のために必要な要素だということで──

「ユリアちゃん?」

「あっ、いえ、はい、行きます……行きます」

「ありがとう!それじゃあ今日の10時頃に校門前で待ち合わせにしたいんだけど、どうかな」

「はい、大丈夫です」

「うん、それじゃあまたあとでね」

 電話が切れる。全身から力が抜けて再び寝床に身を投げた。

 どうにか声に落胆の色を出さないように振舞おうと必死だった。その反動だろうか、今になって涙が溢れそうになる。通話があっさりと終わってくれて助かった。

 多分、一般的な感性であれば、今の会話には怒りを向けるべきだと思う。

 しかし無理だった。アヅキの機嫌を損ねるような振舞いは染みついた習慣には含まれていない。それに自分には人に対して無遠慮に怒りを向けるような勇気はない。

 性懲りもなく舞い上がってしまった自分の愚かしさを恥じる。どうして私はこうなのだろう。

 外に出る理由ができてしまった。涙が止まったら家を出る準備をしよう。

 今更だ。目が無いのはわかっていたことじゃないか。

 

〈文化祭ステージ 舞台袖〉

 ふと、正気に戻る。

 迎えた文化祭開催日。アステガは舞台袖の隅で座り込み、自分の出番を待っていた。ライブステージは既に始まっていて、今は他のグループがパフォーマンスを行っている。その音と熱気が伝わってくるのを感じる。

 もうじき本番だというのに心は変に落ち着いていた。それが実感がわかないからか自信があるからか、はたまた気負う程の理由がないからか。そのどれでもないような気も、全てが当てはまるような気もする。

「よう、そういえば今日まででユリアちゃんをほっとけない理由はわかったかよ?」

 そうしてじっと床を眺めていると、ジーマンが隣にどっかと座って問いを投げかけてきた。本番直前に雑談などと、緊張するような柄でもないだろうに。

 かぶりを振って否定すると。愉快そうに笑って言葉を続ける。

「そうかい。ま、明らかになってもならんでもやることは変わらんだろうが」

 その通り。全てはユリアにこの舞台を見せるため。それを通して自分が何故ユリアを捨て置けずにいられないのか、その理由を探るため。

 答えが明らかになる見込みは薄い。そもそも目的と行動に関連がない。これは何をすればいいのかわからないが何もせずにはいられないために行きついた悪あがきのようなものだ。

 目を閉じて思い出す。何故か幼少の頃に見て、鮮明に記憶に焼き付いているユリアの横顔を。

 その横顔を覚えている。

 宝物を見つけたような、見たこともない美しい景色を見たような、眩い輝きを瞳に湛えたその横顔を。

「……確証ないしずっと言うか迷ってたんだがな。ソレ、そんな考え込むほど難しいことじゃないと思うぜ」

「──」

 いい加減なことをいい加減なタイミングで言うなと釘を刺そうとしたその時、ポケットの通信デバイスが振動する。取り出して確認してみるとアヅキからメッセージが届いていた。

 

『ユリアちゃんは連れてきた。がんばってね』

 

「次、bouquetさんの出番です。準備をお願いします」

 進行役のスタッフの言葉がその時が来たことを告げる。ジーマンがすっくと立ち上がりこちらを見下ろして言う。

「いよいよだ。覚悟はできてるか?」

「確認するなら遅えんだよ」

「ハッ!違いねえわ。そんな軽口叩けるなら心配いらねえな」

「フン」

 いつもと変わらないノリのやり取りに鼻で笑い腰を上げる。らしくもない無駄な思考の時間は終わりだ。あとは仕上げを御覧じろ。

「行くぜ」

 

〈文化祭ステージ 観客席〉

「来た。アステガの出番だよ」

「はい、そうですね」

「ユリアちゃんに見せるために楽器を始めて、ここまで頑張ったんだってさ」

「……はい?」

「わけが分からないって感じかな?僕もそう思うよ。昨日聞いた時はあっけにとられた」

「そりゃそうですよ」

「僕も詳しい経緯を聞いたわけじゃないけどね。多分、考えて考えた末に君にできることは何もないと悟ったんだと思う。それでもなお何かしたいと思った結果がこれなんじゃないかな」

「なんですかそれ」

「しかも人に助けてもらってまでだ。相当頑張ったんだと思う。僕の世話を頑なに拒むあのアステガが人に頼ったんだから」

「…………」

「ひとつだけ、アステガに心配事があったんだ」

「はい」

「あの子、なんでも一人で解決しようとする節があるだろ。それでいて大抵のことは一人でこなしてしまう器用さがある。だから、親しい人を作れない人生を送ってしまうんじゃないかってそれだけが気がかりだった。友達らしい友達も君くらいのようだし、そんな君もアステガのことに興味がないようだったからね」

「…………」

「今だから言うけれど、君を拒絶しなかったのはそうするとアステガの友達が一人もいなくなってしまうかもしれないと思ったからだ。辛い思いをさせたね」

「……いえ」

「でも人に何かをしたいと思えて、そのために誰かの手を借りることができるなら……きっとその心配は杞憂だったんだろう。よかった。本当に。これで──」

「…………これで?」

「いや……よかったら、これからもアステガと仲良くしてやってね」

「…………」

 

〈文化祭ステージ上〉

 スタンバイを終えて顔を上げる。照明の白に目が眩む。

 前のグループが沸かせたギャラリーの熱気が壇上にまで押し寄せてくるようだった。人間の体温と視線とは形を成すものだっただろうか。

 初めて肌で感じるバンドライブの空気に圧倒される前に、自分が向き合うべき人間がたった一人であることを思い出す。有象無象にとっては酷い話だろうが、お前たちに届ける歌はない。

 一人ずつ仲間に視線を送る。『準備はいいか?』。

 ベース……キリヤナギの方を見る。彼は手を挙げて答えた。

 ギター……アレックスの方を見る。彼はただ黙って頷いた。

 ドラム……ジーマンの方を見る。彼は笑って右手の親指を立てた。

 たじろぐ理由などもとよりなかったが、それでも確かに存在したほんの少しの緊張が、三人の顔を見ることで解れた気がした。

 スタンドにかけられたマイクに向き直り、目を閉じて、深呼吸。

「『bouquet』です。よろしくお願いします」

 始まりの合図のMC。会場全体に、誰の耳にも届くように。

 挨拶と同時に開いた目に偶然、観客席に座るユリアの姿が映る。

 笑ってはいない。険しい表情でこちらを睨んでいる。目が合ってもなお視線を離そうとはしない。

 笑えねえとしてもそのツラは何だ。

 ……いや、いいさ。ならせめて最後まで見てろよ。それから──とにかく何とかどうにかなりやがれ。

「前置きは並べません。聴いてください」

 もう一度、一瞬だけ視線をジーマンに向ける。ギターを持つ手に意識を向ける。

 イントロ。背後でスネアドラムが軽快なリズムを鳴らしだす。

 歌を吐き出す為の空気を肺に送った。

 

 *

 

 急勾配の下り坂を疾走するように音楽は進む。

 染みついた動きをトレースしていく両手が、今まで何度も紡いできたリリックを放つ喉が、本当に正しく動作しているかどうかを確認する余裕さえない。

 一度止まろうとしたら最後、歌は勢いを失って台無しになってしまう予感がしている。

 一度足を踏み外したら最後、歌は勢いそのまま台無しになってしまう予感がしている。

 左手がネックを滑る。右手のピックが飛びそうになる。背には冷や汗が滲んでいて、意識は警鐘を打ちっぱなし。

 それでも──

 それでも、もう一度、もう一度見たいと願ってしまったあの横顔を──

 あの横顔を、思い浮かべることだけは、やめない──

 

 *

 

 ああクソッ。全部テメェのせいだ。

 俺がここまでおかしくなっちまったのは、

 全部全部テメェのせいだ!!

 

 *

 

「最後に俺の我儘に付き合ってくれた仲間を紹介させてください。

ジーマン・スターチス

アレックス・マグノリア

キリヤナギ・オウカ

以上です。『bouquet』でした。ありがとうございました」

 

〈文化祭ステージ 観客席〉

「…………そうか。そうか、アステガ、君は仲間と呼べるような人をもうみつけたんだね」

「アヅキさん」

「うん?」

「私は……あいつが何を伝えたかったのかわかりません」

「うん」

「これまで私はあなたに会うためにあいつを利用してきました。あいつのことなんて考えたことなかったんです」

「うん」

「今日、あいつの顔を初めてまじまじと見たような気さえします」

「……うん」

「だから……何を伝えたいのか、私にもわかりませんけど……話してこようと思います。あいつがそうしたみたいに」

「うん、それがいい。じゃあここでさよならだね」

「はい、ここまでありがとうございました」

 

〈文化祭ステージ 舞台袖〉

 気がついたら終わっていた。

 パイプ椅子に座り、力なく背もたれに体を預けている。舞台袖に下がってしばらくの間アステガはそうしていた。耳に栓をされたように、周囲の音が遠く聞こえる。

 一心不乱に歌で感情を放つ高揚感と、加減なしに全部を出し切ったという疲労感と、それらが心に残した余韻が体を満たしている。しばらく動けそうにない。

 これでよかったのかなどと振り返るのが馬鹿らしくなる。やれるだけのことはやった。あとはユリアの心持ち次第だろう。

「お疲れさん。生きてるかー?」

 がらんどうの体にジーマンの遠慮のない声が響く。見ればキリヤナギとアレックスも側に立っている。皆、顔に疲労が見て取れた。

「最後いきなり名前を呼ばれた時はびっくりしたよ」

「そうだ、やるなら事前に言っておけ。あと私達を紹介するだけして自分の名前を言ってないのはどうなのだ」

「…………あ、それもそうだな」

 指摘されて気づく。確かにメンバーの中で自分の名前だけ紹介していないのは妙だ。

 その間の抜けた反応が随分おかしかったようで──または、ライブで気分がハイになったままだからか──三人は一斉に噴き出して笑う。

 笑われて悪い気はしなかった。ただ笑いあっているだけのこの空気がやけに居心地がいい。

 いやしかし、他二人はともかくアレックスはこんなに笑うヤツだったか。

「キリヤナギ王子。アレックス。ジーマン」

 ひとしきりの笑声が止んだあとでアステガは三人の名を呼ぶ。もう一度、その顔を一人一人見つめる。MCで言ったとおり、この仲間は自分の我儘にここまでついてきてくれた。ならば筋として礼は言うべきだ。

「手を貸してくれて助かった。ありがとう」

 言葉と共に頭を下げる。

「──ハッ、また笑わす気かよ。くせえこと言ってんじゃねえって相棒」

 すると、ジーマンが後頭部の髪を手でくしゃくしゃにしながら笑う。鬱陶しさについ頭を上げてしまった。

 そんなものは不要だと、湿っぽさを無理矢理引っ込ませるこの振舞いがジーマンなりの返礼なのだろう。相棒というワードは断固認める気にならないが、確かにこんな形が自分達には『らしい』。

 しかしくさいことを言っているのはどちらなのか。

「私は元より実利のために貴様に手を貸して報酬も受け取っている。礼は不要だ」

 アレックスはあくまでドライな返事を返す。

 不快ではなかった。短い付き合いだが、アステガはこの男が自分に言葉を放つ上で遠慮しないということを知っている。また、このドライさが嫌悪の表れではないことも承知している。

「だが、まあ──悪くない時間だったよ。お疲れ様。また会おう」

 続けてそう言ってからアレックスは足早にその場を去る。どうやらこの男にも体裁を取繕うほどの余裕は残されていなかったらしい。

「大変だったけど僕も楽しかったよ。それに、これで席を譲ってもらったお礼はできたかな?」

 キリヤナギは爽やかな笑顔でそう言って、譲った本人でさえ忘れていたいつぞやのカフェでの出来事を引っ張り出す。

 今はこちらが感謝している時だろうにとアステガは顔に出さず苦笑する。どうやら誰も素直に礼を受け取ってはくれないようだ。

「むしろ借りを作ったくらいだ。キリヤナギ王子、今後何か俺で助けになれることがあれば言ってくれ。手を貸す」

「気にしないで。よかったらこれからも友達として気軽に接してくれたら嬉しいな」

「!」

 握手を求め差し出された手に面食らう。友好の証ということか。こんなことを大真面目に求めてくる人間を見るのは初めてだ。

 何も考えずに応じそうになった手を止める。中途半端に浮いた手を怪訝そうに見るキリヤナギの顔をこちらも見ながら──

「いや、違うな。こっちだ」

「!」

 その手を、そのまま上へと挙げる。

 この方が相応しい気がした。

 理由はない。ただ──らしくもなく、受け身にならず友情を自分から所作に表したいと思った。

 それだけで、こいつと組めて良かったと思った。

 察したキリヤナギがまた笑顔を作る。

 ぱん、と二人の手が乾いた音を立てた。

 

〈学院・カフェ 黄昏時〉

 水槽のようだった。

 営業を終えて人のいないカフェの内装は薄暗い。

 窓の向こう、西へと沈んでいく太陽は壁を、床をてらてらとした光で橙色に染める。同時にそこに存在するものたちを濃い黒の影で隠している。

 周囲は静寂に包まれていながら、しかし遠くに微かに文化祭の喧騒が聞こえる。

 ただ一人、テーブル席に座り佇む生物が息を泡にしていないことが、そこが水の中でないことを証明していた。

 そして証明になるものがまた一つ。扉を開く音と一人分の足音が、音を発するもののなかった室内に響き渡る。

 ユリアは席に座ったまま、こちらに歩を進めるアステガの顔を見て声をかける。水槽のようでも、そうでないならば人と人が話すのに障害は無い。

「座って」

「ああ」

 アステガはそれに無言で返さず、返事をはっきりと声に出す。そして同じテーブル席に向かい合うように座った。

 自分はお前と腰を据えて話をしにきたのだと、その意思を示すように。

 そしてすぐにユリアは口を開いた。伝えたいと思っていた言葉をただ口にする。

 沈黙すればきっと辺りが水中に沈み、それきり声が出せなくなる。そんな予感がする。

「あの日、アヅキさんを呼んでもらったあの日……何も言えなかった。アヅキさんが来ても」

「そうか」

「何も言えないうちにフラれた。応えられないってさ」

「そうか」

 ぽつぽつと、独り言をこぼすように、不器用に、しかししっかりと自分を見ながら発される言葉の一つ一つにアステガは噛みしめるように相槌を打つ。

 それ以外何も言わない。相手が話したいことを話し終えるまで、そうしている。

「それ聞いて悲しむでも怒るでもなく『そりゃそうだよね』って納得したんだ。それが本当ムカついた。それってつまり、内心最初から諦めてたってことでしょ」

「そうだな」

「そのあと変なやつらに襲われたのでムカついてたのも全部吹っ飛んで。怖くて、怖くて死にたくないって。その時の私そればっかりだった。私がそんななのにあんたは全然平気そうで、そんなお前見てたら『私が長年大事にしてきた想いなんてその程度のもんだ』って言われたような気がした」

「なるほど」

「もうもともと凄く惨めな気分だったのにますます惨めになって泣けちゃった」

「……そうか」

「……あとから一人であの日のこと振り返ったら、なんでアッサリ納得できたのかすぐわかった」

「…………」

 相槌を打とうとした喉が止まる。その訳を聞きたくないと思ってしまう自分がいる。

 その疑問が完結してしまっては、つまり自分が願ったことの意味も──

「私、アヅキさんを好きになってる自分のことが好きで、そんな自分に溺れてたんだね」

「…………」

「アヅキさんのこともあんたのことも本当はどうでもよくって、ただ好きな人のことを勝手に想い続けられるその関係がずっと続けばいいって思ってたんだ。告白する気になれないのもフラれて納得するのも当たり前だ。私がこの恋に賭けるものなんて、何も、無かったんだ」

「…………」

「私、自慰行為の為にずっとあんたとアヅキさんを利用してた。本当汚いガキだった。私のために、わけわかんないことでもできてしまえるあんたとは、大違いで──」

「…………」

 懺悔のような独白は、徐々に涙声になっていく。合わせていた目を伏せずにはいられなっていく。悔恨と慙愧の念から、本音を言葉にすることに心が慣れていないことから、感情をコントロールできなくなっていく。

 こんなつもりではなかった。ユリアは思う。

 涙を見せるつもりはなかった。

 これでは、聞かされているアステガが悪者みたいだ。

 自分の言葉を受け入れなかったら悪者みたいだ。

 それでも言わなくては。これまでの馬鹿な自分を清算しなくては。

 そうしなければ、こいつと一緒にいられない。そうでなければ、一緒にいることを自分が許せない。

 せっかく初めてこいつと話をしてみたいと思ったのに、それは嫌だ。

「ごめん。今まで本当に──」

「やめろ」

「────」

「謝らせたくてやったわけじゃねえ。やめろ」

 自分の行いを後悔させたくて、お前に歌を歌ったわけじゃない。

 自分と比較させて惨めにさせるために、お前に歌を歌ったわけじゃない。

 何のためなのか未だ判然としないが、それだけは違うと言い切れる。

 気がついたら、アステガはユリアの言葉を遮っていた。その謝罪を聞くことに言いようのない気持ち悪さがあった。

 では──そこまで明確に違うと言い切れる回答があるのなら、正解は何なのか。

 それきり、二人は重く暗い水の中。こんなはずじゃなかったのにと、双方が思っていた。

 元より何を伝えたいのかわからないのに、そう思ってしまうのは何故なのか。

 その時、二人の耳に遠くから軽快なフォークダンスの音楽が届いた。後夜祭が始まったことを伝えるそれに、ユリアが反応を示した。

「気になるか?」

「ううん、もう踊りたいと思う相手もいないもん」

「────」

 

 *

 

 その寂しげな横顔に、アステガは自分が何故この女を放っておくことができなかったのかを理解する。

 同時にかつて確かに美しいと感じたあの横顔を、もう二度と見ることはないのだと確信した。

 空には一面の黄昏色と滲むように光を増す白い月。

 ひとつの恋の終わりを告げるように、昏く、昏く閉じていくそれを見上げながらアステガは思う。

 これでよかったのだろうと。

 

 その横顔を覚えている。

 失われるべきだった慕情がもたらすその眩さを、

 自分だけは生涯忘れることはないのだろう。

 これでよかったのだ。

 

 第四話 終

 

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