初恋のおわりのうた 第三話 ─笑ってよ、君のために 笑ってよ、僕のために─

 

〈学院・カフェ 夕方〉

 向かいの空席を睨んでいる。

 営業が終わり、照明の落とされた学院のカフェにはテーブル席に座るアステガ以外に人影はない。

 季節は移り、高い空と肌寒さが人々に寂寥を感じさせる秋。

 夏季休講を終え後期日程に入ってからしばらく経った今まで、学院内でユリアの姿を見た者は誰もいない。

 

 連絡がつかなくなったのはあの夏の雨の日から。

 謎の人物たちからの襲撃を退けたその後、アステガはまずユリアを家まで送り届けた。

 本来なら先に公的機関の人間に通報し、起こったことの事件性をありのまま伝えるのが最優先されるべき事柄である。にもかかわらずそうしなかったのは何故か。

 昨夜の襲撃は考えなしの人攫いなどではない。特定の人物を計画的に狙った犯行だ。

 その向こう側にある目的が何なのかは、行った本人たちしか知り得ないこと。そこでアステガは、自分とユリアの二人が同時に狙われる対象となった理由を考えた。

 この二人の共通点……二人が共通して持つ人間関係……となると、行き当たる人物は一人しかいない。

 ユリアを無事家へと帰した後、アステガは帰宅してアヅキの帰りを待った。彼はその日もまだオウカ町に滞在する予定だと聞いていたためである。

 そしてアヅキに面と向かって問いを投げるつもりだった。

 複数の外国人による夜襲という尋常ではない出来事について。その襲撃を手引きした人間の心当たりについて。子供の頃に自分に対して口にした『強くなってもらわなくてはならない』という、まるでこのような凶事がいつか降りかかることを予期していたかのような言葉について。

 仮に通報して事件と認められた場合、あの四人組が国外の人間であることが本当ならば最悪国際問題に至る。そうなれば社会の目や風にアヅキの持つ真実が隠される可能性もゼロではない。

 ならばまず本人の口から直接聞くのがいいと判断した。

 何より、親子の関係であっても自分はアヅキのことを何も知らないのだ。

 しかし、いくら待てどもアヅキが家に姿を見せることはなかった。代わりにアステガの耳に飛び込んできたのは一つの報道。

 それは深夜の内に身元不明の男性四名の首無し死体がオウカ町内のあるホテルで発見されたというもの。遺体は全員揃ってスーツを着ていたという。

 人数も、その性別も、服装の特徴も、商店街の襲撃から遺体発見までの時間も、全ての報道内容が昨日の四人組の特徴と矛盾なく一致する。間違いなく昨夜相対した四人のことだった。

 事実、それからというもの再びの襲撃に遭うということはなく、ユリアも同様に彼女の家族から同じ目に遭ったという話を聞くことはない。

 遺体の身元調査はあれから一向に進んでいないという。

 あの時すぐに通報していたら、もしかすると何か状況が変わっていたのだろうか。だがそれも最早手遅れであろう。

 結果として全てが謎に包まれたままであるという気持ち悪さだけが後に残り、アステガはどうしようもなく日常に戻るしかなくなったのだった。

 

 カメラを現在へと戻そう。

 一人分の足音が近づいてくるのが背後に聞こえる。

 夕日が席の影を伸ばしていく様をアステガがただ眺めていたのは、人を待っているからだった。

「お前から呼び出すなんて珍しいな。つか初めてじゃねえか?」

 足音の主であるジーマンはそう言って、アステガが座るテーブル席の椅子ではなくその隣の席の椅子に座った。ちょうど背中合わせになるように。

 無駄な作り笑いを浮かべるのがクセになってしまっているジーマンにとっては、顔を見られない方が真面目な話がしやすい。この行動にはそんなちゃんとした意図があるのだが、実際に彼がそれを行えるのはアステガなら自分の行動に興味を持つことはなく、そのせいで機嫌を損ねることもないだろうという確信があってのことだ。尤も、そんな信頼など向けられる本人が知るはずもない。

「で、何の用だ?」

「知恵を貸してくれ」

「話の筋が見えねぇよ。言葉のキャッチボール下手クソかよ」

「ユリアのことは見たことあるだろ。あいつが引きこもりになった。連れ出したいが方法が思いつかない」

「ユリア……ってえと、たまにお前につっかかってくるあの無愛想な女のことだな」

 そんなやつもいたな、とジーマンは記憶にある険悪そうな二人のやり取りを思い出す。なるほどそういえばここ数ヶ月の間これに似た光景を見た覚えがない。

「疑問がいくつかあるんだが、そりゃあそのユリアって子個人の問題だろ。家族でもねえ赤の他人のお前が骨を折る必要は?」

「『どんな形で社会に出るかはユリアが決めること』だとよ。あいつの親はその一点張りだ」

「へえ──卒業なり中退なりしたら追い出す気満々なわけね」

 ジーマンが察する通り、ユリアと彼女の家族の仲は良いとは言えない。

 親はいつまでも夢見がちな恋に現を抜かしている子供に匙を投げており、子供はそんな親のことなど眼中にないという、そんな冷え切った疎遠さ。そして『どんな形で社会に出るかはユリアが決めること』という言葉はつまり『親としての義務を果たして子を社会に送り出せれば他はどうでもいい』という意味だ。

 また、話題に関係ないからとこの場でアステガは口にしないが、当然この疎遠さの原因の一つであるアヅキとその息子であるアステガに対し、ユリアの両親が持っている印象ははっきりいいものではない。そんな相手に相談も協力の取り付けもできる筈がない。

「しかしそれなら尚更わかんねえな。仲良いわけでもなさそうだったけど、そんな相手の心配するキャラだっけお前?」

「わからねえよ」

 元々アステガはユリアのことを煩わしく思っていた筈である。一刻も早く不毛な恋を終えて、自分の周りから消えることを望んでいた筈である。

 そんな自分が今、ユリアのことを放っておくことができずにいる。

 苛立ちを覚えていた存在が現実で目の前から消えたと思えば、今度は自分の思考の片隅に常にそれがいて苛立ちを生んでいる。アステガ自身も、そんな自分の心境の変化に戸惑っているのだ。

 戸惑っているからこそ、無視することができないのだ。

「わからねえが、捨ておく気にならねえ。捨ておけねえ理由を知りたい」

「ふーん……意外だな」

「同感だ」

 なんだそりゃ、とジーマンは苦笑する。まさかこの男にこんな人間らしさがあったとは。

「だがお前、相談相手間違ってるよ。俺はカウンセラーじゃねえんだ。引きこもりをどうこうなんてできやしねえって」

「手を借りられる相手がお前くらいだった。頼む」

「『くらい』ってお前ね。そーんなこと言われてもー……だなあー……」

 歯切れ悪く声を伸ばし、悩んでいる風を演じながらジーマンは思考を巡らせる。

 さて、これは面白いことになったぞ。と。

 ジーマンという男は打算を持ってでしか人と接触することはない。それはもちろんアステガとの関係においても同様である。そして先程の挨拶代わりの言葉通り、ジーマンがアステガからこんな頼みごとを受けたのは初の事だった。

 つまり、これは二度とあるかわからないチャンスだ。どうにか自分の目的とこの話題を繋げることはできないものか。

「そうだな……ユリアちゃんが引きこもった原因に心当たりはあんの?」

「男に振られた」

「────なんて?」

 予想していなかった言葉にジーマンは耳を疑い、半笑いで振り返ってしまう。声も裏返ってしまった。

『そんなことで』と馬鹿にするつもりはない。しかし、言葉が確かならこの案件には──

「だから、男に振られたことが原因だ」

 振り返って視線を返してから、アステガは繰り返す。

 

 ──この案件には、手を出すべきではない。

 これは理性的な損得勘定が通じない問題だ。

 何より、自分はそこまで品性を捨てられない。

 

「そっとしといてやれ。俺達にできることはねえ」

「どういうことだ」

「どういうことだも何もそういうことだよ。そりゃあユリアちゃん本人が乗り越えるべき問題だ。俺達がどうこうするべきことじゃねえって。というか失恋で引きこもりだのほっとけないだの君ら今年いくつよ?いつまで思春期ぶってるつもりなんですかね」

 そう。人間の恋愛……中でも終わった恋などという極めて私的でデリケートな問題は当事者が解決策を見出していくしかない。助けを求められてのことならまだしも、決して赤の他人が自分から口出しして方向性を決定していいものではない。自ら立ち直ろうとしない精神を外部からの刺激で無理に立ち直らせれば確実に何かが『拗れる』のだ。

 そしてそれは大抵の人間が少年期に通過儀礼として経験して理解しているようなことである。

「んなことは──」

「わかってねえだろ。じゃなきゃ引きこもった人間相手に『連れ出したい』なんて言葉が出るはずねえよな?俺から言わせりゃそれ暴力で脅すことと同じな」

「!」

 言われてアステガはハッとした。思わず片手で口を覆う。自分のこの気持ちが一方的なものであることは自覚していたつもりだった。しかし暴力とまで言われてしまうとは。

 そこまで強い言葉を使われて初めて自分が全く冷静ではなかったことに気づく。ジーマンの言い分にある正しさと、心のどこかでユリアの為にもなると思ってしまっていた自分の望みにある加虐性とを、アステガは自省と共に理解した。

「そういうわけだから俺には協力できねえ。やるなら一人で勝手にしな」

 そうしてジーマンは席を立つ。

 上っていた血を下ろしたアステガの脳が、無意識にいつか見たユリアの横顔を思い出す。その追想に伴って心を走る、名状し難い悲しみとも焦りともつかない感情が不快だった。

「それでも」

 つられるように、つい、冷めた頭がそう告げる。

 考えあってのことではない、弱音ともいえるような本音。

「何もするべきじゃねえとしても。何もしねえでいるのが辛い」

 

「そうかい。じゃあピエロにでもなるんだな。精々お前にできるのはユリアちゃんを笑わせて気晴らしさせるくらいのことだろうよ」

 

「────」

 

「ああ、おあつらえ向きのイベントがあるじゃねえか。文化祭もうすぐだろ?どうせ人を笑わすようなユーモアなんざねえんだし、そこで派手に出し物でもやったら?録画して送ってやるよ」

 

 その返事が、アステガにとっての天啓になる。

 

「なるほど、悪くねえ」

「────なんて?」

 予想していなかった言葉にジーマンは耳を疑い、半笑いで振り返ってしまう。

 ひょっとすると、自分はアステガという男の本性を勘違いしていたのかもしれない。こんな低俗な冗談にまで縋るほどに何かに必死になれる奴だったか?

 

〈学院・講義棟裏面 夜〉

「……で、ライブステージの使用許可を得られずにノコノコ帰ってきたと」

「取り合いもしねえ。あのシロツキとかいう教授」

「あたりめーだよこのお馬鹿さんめ」

 日が沈み、点在する街灯に照らされてなお薄暗い講義棟裏面。

 歩道に沿う様に設置されたベンチに腰掛けて思案に耽るアステガを見下ろし、ジーマンは呆れの言葉を投げかけた。

「『文化祭のライブステージを自分にも使わせろ。何するかは決めてません』なんて通るわけねえだろ。それもたった一人の知人のためにとか、盛り上げようとマジになってる他の利用者の立場にもなってみろよな」

 その言葉に何も返さず、アステガは沈黙したまま宙を睨み続ける。

 大方高座に立つことはもう決心しているのだろう。その為の方法を探ることしか頭にないといった具合だろうか。そうジーマンは見当をつける。管理担当の教授に門前払いにされた直後だというのに。その根気強さにますます呆れるばかりだ。

「今更だけどさっきピエロになれっつったのは半分冗談だからな?」

「…………」

「冷静になって考えてみろって。お前が笑いものになることが本当にユリアちゃんにとってプラスに繋がるのかどうか。」

「…………」

「……ただの自己満足にしかならんぜ。いいんだな?」

「…………」

 駄目だ。何を語りかけても黙したまま。もう覚悟が決まってしまっている。

 夜空を見上げながらひとつ溜息をついて観念した。これはこちらが折れるしかあるまい。

「仕方ねえ。お前が玉砕しに行ってる間にステージの使用に関してクリアしなきゃならん条件調べといたから確認しな」

「あ?」

 ようやく視線をこちらに寄越したアステガに向けて自身の通信デバイスを投げ渡した。受け取ってもすぐにそれを確認しようとはせず、アステガは怪訝そうな顔で訊く。

「何の真似だ?」

「知恵を貸せっつったのはお前で、提案したのは俺だぜ?」

「一人で勝手にしろって言ったのもテメェだろ」

「いいじゃねえか。焚きつけた責任くらい取らせろよ。俺があんな馬鹿言わなけりゃお前も馬鹿にならずに済んだんだ」

 勿論自分はそんな責任感だけで動く人間ではないのだが。利用する算段が付いたからという方が主な理由なのだが。

 これも一応本音といえば本音だ。

 曲がりなりにも友人と呼んでいる相手の滅多に見せない気まぐれに付き合うのも悪くはないだろう。

「そういうことだからアステガ、明日のこの時間までの宿題だ。そのデバイスには音楽が色々聴けるアプリが入ってるから、ユリアちゃんに聴かせたい曲探してこい。本当は皆が知ってるノリやすい曲とか、どうしても演奏したいってくらい好きな曲を選ぶもんなんだがお前の場合目的が目的だからな。個人宛でいいだろ」

「話が見えねえ」

「鈍い奴だな。『バンドやろうぜ』って言ってんだよ」

「────」

 理解が追い付かないのか、アステガは仏頂面のままで固まる。

 共感はするが、今はお前の意志を尊重するべき時じゃない。

「突拍子もないって思ったか?もう一度言うが知恵を貸せっつったのはお前だぜ?」

 数秒の間、沈黙が流れる。固まった表情をそのままに、手を顎に当てて考えるような動作をした後、アステガは言う。

「それは、ウケるのか?」

「当然。想像だけでも爆笑モンだ」

 

〈??? 夜〉

 その日は自主的に涙を流した。そんな気分だった。

 実のところ悲しみも怒りもとうに心の中を過ぎ去っていて、

 外界を拒絶する理由など本当は初めから無いこともわかっていたくせに、

『それでも認めたくないものが確かにあるのだ』と、

『涙を流すに足る理由があるのだ』と、

『そう言い切ることができれば少しは恰好がついたのかもしれないな』と、

 そんな風に益体も無いことを考えては終わった恋を言い訳がましく延命治療し続けている。

 涙を流してみて気づいたこと。

 人の涙って、ドラマや漫画みたいに誰かが見ていてくれるものではないのだ。

 そんな当たり前のことすらこれまで二十年も生きていて考えもしなかった。

 このユリアという人間が、それほどまでに幼稚だったという事実。

 それを今更ながら、頬を伝って降りてきた塩辛さと一緒に噛みしめた。

 溜息をつく。現実と向き合う気分には、まだなれそうもない。

 

〈学院・カフェ 午前〉

 音楽の心得などあるはずもなかった。

 良さも好みも流行りも知らない。そもそも興味を持ったこともない。

 ジーマンの提案を承諾したのも何をしようとしても結局はゼロからのスタートであることがわかりきっていたからで、それがたまたま音楽であっても他の何かであっても同じだろうという、そんないい加減な心構えからだった。

 向かいの空席を見つめたままで、テーブルに置いたデバイスの音楽再生アプリで表示される曲名を片っ端からタップしていく。

 両耳につけたイヤホンから多様な音が放たれる。脳を直接刺激するような振動。

 昨日から一睡もせずに選定を続けているが、未だにこれという曲には辿りつけずにいる。

 倦怠感から、背もたれに体重を預けて漫然とカフェテリアに流れる人々の営みを眺める。流石に眠気が襲ってきた。

 溜息をつく。少しだけ目を閉じて、今一番考えるべき人間の、今までで一番多く見てきた横顔を回想する。

 その時、耳に流れた歌の詞が、アステガのアンテナに引っかかる。

 自分の今と、自分が知っているユリアという人間とひどくシンクロしているように思えるその詞。

 或る人間のことを強く想いつつも決して綺麗な心情ばかりを歌ってはいない。寧ろまさに無くなろうとしている関係性への諦念や未練を感じさせるようなその詞が引力だった。自分の意識にどうしようもなく深く刻みこまれていくのを感じる。

『あ、いいな』と思わず呟いてしまいそうになる。全く劇的ではないその巡り合わせに苦笑した。

 リピート再生のマークをタップする。

 

〈学院・庭園 昼〉

「ブハハハハハハハハハッ!!!!!」

 日が傾き始めた学院の庭園にジーマンの品のない笑い声が響く。御覧の有様が、アステガが先述した曲を演目に提案した結果である。

 選曲を馬鹿にされることは別に構わない。だがその爆笑する様子についムカついたからとアステガは右掌で声の主の頭を鷲掴みにした。ジーマンが座っていたベンチの足が浮いてガタンと音を立てて一瞬、沈黙が訪れた。

「真面目に聞け」

「スマン俺が悪かった」

(謝るの早いな)

 反省しているか疑わしくなる、食い気味な謝罪に手を引っ込めて話を続ける。

「で、どうだ?」

「お前がこのバンドを選ぶとはな。意外性あっていいんじゃねえか。バチバチに衣装キメてメイクしちまってるお前の姿想像してつい笑っちまったぜ」

「そのジャンルでいくなら人手が要るだろう」

 アステガは続けて明確すぎる問題について問う。文化祭で演奏したいが音楽の経験はない。音楽に対し真摯でもない。そして親しくも無い人間に手を貸してくれと言われてイエスと返してくれる人間がどれほどいるだろうか。

「それなら心配するなとまでは言えねえけど俺に一つ考えがある。早速勧誘に行くぞ」

 言うなりジーマンは立ち上がり、歩き始める。そして背を向けたアステガに聞こえないように続けた。

「まあ一番意外なのはお前がマジで曲を選んできたって事実なんだがな」

 実を言うと笑われるのが目的ならなんでもいいだろうなどと言い、もっと適当な選び方をしてくると高をくくっていたし、そうしてくれれば遠慮なく手を抜けたのだが。呆れ気味に思う。

 緩めていたネクタイを直して両頬を叩き気を引き締める。

 ここまで本気の姿勢を見せられたことだし自分の仕事くらいはマジで当たんなきゃ嘘だな。

 

〈学院・庭園 約一年前〉

 思えば俺、ジーマンがアステガという男と知り合ったのは去年のこの時期だった。

「やあ。君がアステガ・ルドベキアだね」

 時計の針が一時を示す少し前。昼食を済ませて午後からの講義に向かう学生の姿をまだまばらに見かけるような時間。

 庭園のベンチを中心にして、十数人の人だかりができていた。

 偶然目にしたそれが気になったのは、群衆の中に有名な貴族の姿を見つけたのが理由だった。遠目でその身なりの良い金髪の男性を注視する。取り巻きであろう周囲の学生の隙間を縫うようにして。

「失礼。名乗るのが遅れてしまった。私の名はアレックス。アレックス・マグノリアだ。以後お見知りおきを」

 表面上は友好的な態度であってもその実態に慇懃無礼を絵にかいたような人柄を隠しているのがわかる。そんな声色で放たれる挨拶に、声をかけられた男、アステガが反応を返すことはない。

 アレックス・マグノリア──この桜花国を構成する七つの領地の一つを治めるマグノリア公爵家の跡取り。

 貴族主義的な思想を持ち、自らの考える正しさを以てこの桜花大学院の『どのような家の出であれ、学生同士は平等であるべき』という教育方針を変えようとしている派閥の幹部である。

 野望実現に向けて次期生徒会長の座を狙っていると公言しており、点数稼ぎの為には一般生徒に対して傷害に近い行為を行うことさえ辞さないという。そんな黒い噂もある男だ。

 そんな男の情報ならば、どんなものであれ退屈凌ぎにはなるだろう。

「何の反応も返してくれないとは、傷つくな。どうやら君に人並みの礼節を期待した私が間違っていたらしい」

 軽い挑発にもアステガは無反応。口々に糾弾しようとする取り巻きを手で諫めながら、アレックスは続ける。

「まあいいさ。勝手で悪いが話をさせてもらうよ。アステガ、君はこの学院にレポートの代筆や出席代行等といった不逞行為を金銭と引き換えに請け負う集団が存在するという噂を知っているかな?」

 その発言で俺は意図を理解する。なるほどアレックスの人間性ならば、そのような存在は許しておけるはずもあるまい。

「最近になってそんな情報を耳にしてね。実際に利用したという学生も何名か確認している。嘆かわしいと思わないか?こんなものが存在するならばこれを学院の腐敗と言わずしてなんと言う」

 大仰にかぶりを振るような動作をとるアレックス。アステガはなおも無視し、自分の通信デバイスの画面を確認した。恐らくは時間を確認したのだろう。まもなく午後の講義が始まる。

「この腐敗を断ち切るために何でもいい、情報が欲しいんだ。そこで君の存在に行きついた。理由は知らないが、君は今年の前期日程でほぼ全ての講義を単位取得を認められるギリギリまで欠席しているそうだね」

 講義棟へ向かおうと立ち上がったアステガの進路をアレックスの取り巻きが阻んだ。

「退け」

 道を譲るよう促すその声に怯む者はいない。構わずアレックスは続ける。

「それなのに試験や提出物は好成績を収めているという話だろう。これを聞けば妙な話だと誰もが思うだろうね」

「邪魔だ。こいつら退かせ」

「ここからが本題だ。君、その集団について何か知らないか?」

「知るか」

 簡潔な即答。落胆する様子を隠さずにアレックスは溜息をつく。

「そうか。残念だ」

「わかったなら道開けろ」

「まあそう焦らなくてもいいだろう。君、今期も欠席ばかりしているそうじゃないか。ああ、その様子からするとひょっとして次の講義はもう崖っぷちだったりするのかな?それがたまたま必修科目だとしたら、残念ながら留年ということになるのか。バイトばかりの君の生活からして、そうなると学費の捻出には困るだろうね」

「────」

 なるほど、初めてアレックスのやり口を目の当たりにしたが噂に違わない強引さだ。それでいて初手で詰みを作る賢しさがある。

 この状況、アステガから情報を得られればそれで良し。ハズレであってもアレックスにとって不要な学生を一人学院から追い出せる。逆上して暴力をふるってくれれば直接手を下せるし、むしろそれを手柄として広報することで学院内の自らの支持率を上げることさえ可能。

 どんな汚い手を使おうが普段から孤立しているアステガに対してならばどうとでも隠し通せる。人気がまばらになる時間帯に実行したのも、隠滅の容易さを考えて敢えて狙ったのだろう。

 それに、気の毒だが関係のない一般学生一人を助けるために学院でも指折りの規模を持つ派閥を敵に回せる馬鹿はいまい。自分だってそうだ。

 総括して、今の状況ができあがった時点でアステガは既に詰んでいると言える。

「……もう一度質問しようか。君、その集団について何か知らないか?」

「気色悪ぃ奴だな。学生よりマフィアのが向いてるぜ」

 遠回しに王手(チェック)を宣告されても、アステガは顔色を変えずに挑発を返す。強がりとしか考えようのないその態度にアレックスは呆れたように嘆息し、徐に右手を挙げた。それを合図として取り巻きが動く。

「……どうやら痛い目を見なければ自分の立場が理解できないらしい」

 雑然と周囲を囲んでいた取り巻きが、アステガを中心にして円状に列を作る。それがブラインドとなり、遠目からは内部の様子が見えなくなってしまった。

 終わりだ。これで何が起こってもそれを証言できる者は誰もいない。

 見物もできない私刑には興味をそそられず、踵を返して講義棟に向かおうとしたその時である。

 

 視界の端に奇妙なものを見た。

 

 人垣の中心から、ベンチが垂直に立っている──?

 

「狼狽えるな!私が前に出る!」

 どよめきの声を上げる取り巻きをアレックスが一声で宥める。つまりアレはマグノリア側の誰かの仕業ではない。

 外からは状況がわからないがこの光景、アステガがさっきまで自分が座っていたベンチを持ち上げている以外に推察しようがない。どんな膂力だ。

 いやそんなことよりも、まさか──本気か?

 跡取り息子とは言え相手は七貴族の一角。それに暴力を振るうということがどういうことかわかっているのか、コイツは──!?

「それはハッタリか?それとも本気で私に対し牙を剥くほどの馬鹿なのか?」

 命の危機と、そう例えても決して大袈裟ではないほどの暴力を前にしてもアレックスは不遜な態度を崩さない。

 あまりに常軌を逸した自信──それは彼が常日頃から掲げる貴族としての誇りに起因するものというだけでは到底説明がつかない。こちらにも確実に“何か”がある──!

「どいてた方がいい。後ろの奴もだ」

「どこまでも無礼な男だ。だが何を企んでいようと、この『王の力』の前では……ッ!」

 そこまで言いかけてアレックスは言葉に詰まったように口をつぐんだ。辺りに緊張が走ったのが見て取れる。

「馬鹿なッ!?コイツ、正気か!?退避だ!全員退避!」

 そして間をおいて続くその言葉が、その緊張を動揺へと変える。

 アステガが何か動きを見せた様子はないというのにこの掌返し。十秒とない今の時間でこの男は何を察した?

 自分と同じく取り巻きの大半は混乱した様子で、今までとは真逆の命令に即座に反応できずにいた。

「急げ!包囲網が崩れようと構わん!散るんだ!」

 繰り返し放たれた言葉にようやく只事ではないと察したのか、人垣が形を崩していく。

 内側にいる人間がようやく視認できるようになった。やはりというか、ベンチを抱えて立っていたアステガの姿が。

「忠告はした」

「ッ!──待て!」

 そのアレックスの静止が届くことはない。

 アステガは一歩、力強く前へ足を出す。

 と──次の瞬間、その姿を見失った。本当に、消えたように思えた。

 ガキッ!

 何か硬いもの同士が撃ち合うような音が響く。

 その乾いた音が、勢いよく振り下ろされたベンチのフレームが石畳を傷つける音だとわかったのは宙を舞う人間の姿を認識してからだった。

 

 空を跳んでいる。人が、あんなに高く。

 

 信じられないことに、アステガはベンチを武器としてではなく棒高跳びのポールのように利用し、人の身長より高く跳躍して包囲を突破したのだ。

 予想だにしていない動きに本当に見失ってしまった。一瞬、その姿が太陽光を遮ってこちらに影を作る。

 自分の頭上を通り過ぎるその姿に、取り巻きは唖然としてただ見ていることしかできない。

「なんだあの化け物は!?」

 つい本心が漏れたのだろう、アレックスが叫ぶ声がする。

 そしてアステガは着地した。偶然、見物していた自分のすぐそばに。

 するとあろうことか、その男はこちらを見て信じられないことを口にした。

「危ねえな。どいてろって言っただろ」

 ──なんて?

 さっきの忠告は俺に対してだったのか?

 あんな場面で言われてもわかるわけないだろう。

 動揺から言いたいことを何一つ言い返すことができないでいると、もう興味はないとばかりにアステガは視線を逸らして講義棟に向かい一目散に駆ける。背中が、瞬く間に遠くなる。

 何だ──?俺は今何を目にした──?

 この学院において絶対的ともいえるほどの影響力を有するマグノリアの陣営に対し単身で風穴を開けてみせたその姿は、企業や組合といった集団の力ばかりを目にして育ってきた自分の価値観にはあまりにも衝撃的なものだった。

 自分の中で、アステガという人間に対する興味が俄然大きくなっていくのを感じた。

 マグノリア陣営の人間が何人か、怒声を上げながらアステガの背を追おうとする。が──

「追うな!無策でどうにかなる相手ではない!」

 アレックスの一声が彼らの足を止めた。

「今から追えば確実に人の目につく形でいざこざを起こすことになる。そうして君たちの立場を危うくすることはない。……残念だが今回は引こう。我々はあれの能力を甘く見ていた」

 先程までの焦りを一切感じさせない穏やかな口調で放たれるその指示に、気色ばんでいた者たちが冷静さを取り戻す。

 敵対者の思わぬ行動に不意を打たれれば、誰もが混乱と動揺と反感を覚え、冷静さを欠いてしまうものだ。だがアレックスの言葉はその冷静さを取り戻させた。

「何、詰問の機会などまだまだいくらでも作れるさ。この屈辱を忘れさえしなければね……。さあ皆、行こうか」

 そう言い、アレックスはその場から去っていく。柔和な口調でありながら心の奥底にある静かな怒りの存在を匂わせるその言葉に、取り巻きも何も言えずに後に続くようにして撤収していった。

 賢明な判断だ。

 今の指示も本心ではあるだろうが、恐らく追撃を止めた最大の理由は包囲戦ほどに人数差が有利に働かない状況を恐れたためだろう。

 数を有効に扱える悪知恵、感情や目標に囚われずに引くことを選択できる冷静さ、必要とあらば自分から前に出られるリーダーシップ、一声で集団を操作できるカリスマ性……なるほど、このアレックスという男は確かに家柄だけではない。優秀な指導者となれる才を持った傑物であるように思える。

 彼ともこの学院にいる間にコネを作っておいて損をすることはないだろう。

 思わぬ偶然から面白い人材を二人も見つけたことに高揚しながら自分もその場を後にする。

 まずは、そう、今日の出来事を話のタネとしてアステガに声をかけてみよう。

『詰問の機会などまだまだ作れる』というアレックスの言葉が嘘でないなら、アステガの後をついてまわっていればアレックスに近づくチャンスは必ず訪れる。そしていつか来るその時、自分を売り込める時のためにマグノリアの陣営のことを、彼らが欲するものをもっとよく知らなくては。

 相手は学院きっての大勢力。ならば交渉材料はいくらあっても足りないだろう。さあ、楽しくなってきた──!

 

 しかし、この企みは次の年の春に頓挫することになる。

 アレックスが“ある人物”の力によって失脚したことで。

 

〈学院・キリヤナギ達のテラス 昼〉

「結論でたか?」

「思いつかない。父さんにも聞いたけど、『タチバナ』は好意でいてくれてるって」

「だろうな」

「そうなの?」

「近衛騎士は、要人の周辺警護を任される上で、何よりも信頼性を求められる。出自がはっきりしていて、かつ長く仕えているのなら、毎回選出されるのは当然のことだ」

 この国の王子、キリヤナギ・オウカ。騎士貴族アゼリア卿の息子であるヴァルサス・アゼリア。七貴族の一角である公爵の令嬢、ククリール・カレンデュラ、そして自分ことアレックス・マグノリア。

 いつもの友人といつもの屋内テラスで集まり、いつものように昼食を摂る。そんな変わることのない日常のワンシーン。変わるものと言えば交わされる話の題材程度のもの。

 この国に伝わる古武術『タチバナ』のサークルを立ち上げるというキリヤナギ王子の目下の目標。今日の話題はそれについてだった。

 達成するにあたって唯一の障害といえる『顧問がいない』という問題。差し当たって顧問を依頼した相手であるシロツキ教授が問うたタチバナの存在意義に対する疑問。それに明確な回答を思いつかずにいる王子の悩む姿を目にしつつ、ずっと引っかかっていたシロツキ教授の言葉を反芻する。

「まさか、大好きで興味深くて仕方ないんだよ」

「本来なら不要なはずの『タチバナ』が、何故現代まで王家に必要とされたのか興味が尽きないのです」

 その『不要であるからこそ興味深い』という姿勢は自分には少なからず衝撃だったのだ。

 上に立つ者が導き、下にいる者はその手足となって働く。このシステムに人の感情は不要であり、出る杭があるならば打たねばならない。

 自分はかつてそんな思想を掲げて、その正義を行う為に生徒会長になることを望んだ。

 もちろん今もなおその考えを間違いだとは思っていない。実際、王子への暴行事件があったりと、自分の派閥が解体されてからのこの学院の治安はお世辞にも良くなったとは言えない。

 しかし、シロツキ教授のように不要と感じたものに『何故』と疑問を投げかけることをかつての自分はしただろうか?意味を見出す努力をしていただろうか?

 

 それを怠ったばかりに、見落とした価値が無いと本当に言いきれるだろうか?

 

 さらに言うなら、見落としていたからこそ自分は失脚したのでは?

 

 友達になったという名目で王子の庇護下にいるとしか思えない(王子本人は本気で友達になりたいと思っていただろうし、無意識だろうが)、その庇護の下でかつて買った恨みから逃れられている今の自分の立場。その情けない結果。

 きっと自分には足りないものがあったのだ。

 そしてその足りないものこそがシロツキ教授の見せたあの姿勢だったのではないか。

 

「先輩?マグノリア先輩?」

「ん──?」

 考えに耽っていたせいで周りが見えなくなっていたらしい。王子からの声かけを聞き我に返る。

 視線を王子の方へ向けるとその隣に先程までこの場にいなかった筈の男が二人。

 その内気持ち前へ出ている片方を認識する。

 スーツ姿で整った格好をしているように見えて、その赤い髪は伸びっぱなしで前髪をヘアピンで止めている。口元は柔和に笑みを浮かべていてもこちらを見下ろす目は一切笑っていない。

 そのもはや狙ってやっているのかと言いたくなるほどの胡散臭さに一瞬たじろいでしまう。他の三人も同様に、不審がっている様子を隠せていない。

「お客さん?みたいだけど……」

「君は……確かスターチスだったかな」

 顔と一致する名前を記憶から探し当てる。かつて選挙活動をしていた際、応援者を選定すべく影響力のありそうな生徒を調べてリストアップしたことがあるがその中に彼の名前があったのを覚えている。

 尤も、その名前は早々に候補から外れた。まさに今目にしているこのいで立ちから理由は察していただけると思う。

「へえ……、家の名だけとはいえ覚えて頂けているとは光栄ですな」

「大企業の社長の息子だ。嫌でも噂になるさ」

「改めて、ジーマン・スターチスです。以後お見知りおきを」

 そう自己紹介をしたジーマンは握手を求めてくる。突然で不躾。応じることはないだろう。立ち上がって目線を合わせる必要もない。

 それよりも気にすべきはジーマンの傍ら、影のように立つもう片方。

 黒のウインドブレーカーを羽織っている、後ろで束ねた黒い長髪が特徴的な大柄な男。高い視点からこちらを無感情に見下ろす切れ長の目が発するこの異様な迫力には覚えがある。いや、忘れる筈はない。

「そして……アステガ・ルドベキア。まさか貴様が今私の前に現れようとは」

 私の言葉にアステガは怪訝そうな表情をつくる。

「誰だ?話したことあったか?」

「は──?」

 なんだそれは。

 かつて暴力を振るった自分がその過去を内心で省み始めたというのにその被害者は記憶にさえ留めていないというのか。

 報復に対する恐怖から僅かでも怯みそうになった自分を他所に、この男は自分の顔さえ覚えていないというのか!

 その事実に言い知れぬ不快感を覚える。緻密に組み上げてきた計算が運による要素一つで台無しにされたような不快感。今しがた考えていた自分に足りないものを、価値があるはずのそれを手に入れかけたところで『そんなもの』と偶然通りがかっただけの人間に横から言われたような、そんな気分がしたのだ。

「ひとりズッコケそうになったんだけど、お前本当に去年この人にフクロにされそうになったこと覚えてねえの?」

「覚えがねえ。興味もねえ」

「……オッケーお口チャックな。これから交渉しようって相手に印象悪くなるようなこと言わねえの」

 思わず固まってしまった自分を他所にアステガとジーマンは軽口を叩きあう。

 落ち着け。抱きかけたこの憤慨は理不尽なものだ。間が悪かっただけだ。わざわざ私の動揺を誘う為にこの男が言葉を選んだりするものか。

 一呼吸いれて本題に入る。彼らには早々に目的を片づけてもらってこの場からご退場願おう。

「それで、私に何の用だ?」

「話が早くて助かります。まずはこちらを」

 言うなり、ジーマンは大きさの違う二枚の封筒をテーブルに置いた。それに手を伸ばすことなく続ける。

「これは?」

「“ゾウカ出版”に関する情報をまとめた書類です。ちと古いものにはなりますが当時の本拠やそこを管理していた責任者、所属していた構成員の名をいくつか……などなどね」

「なんだと……」

 予想していなかった単語を耳にした衝撃で思わず驚愕の声をあげてしまう。顔にまで出てしまっていたようで、その反応にジーマンは満足そうに笑う。

「流石、組織名はご存じのようで」

「先輩、ゾウカ出版って?」

 話についてこれないでいる者たちの疑問を代弁するかのように王子が尋ねた。

「前に少し話しただろう。レポートなど学生本人がすべき課題を有料で請け負う集団、その名前がゾウカ出版だ」

「そういや、なんか話してたわ……」

 思い出して納得したのか、ヴァルサスが言う。様子を見る限り全員その話を覚えてはいるようだ。

「しかし私の派閥がいくら探しても名前程度しか知ることができなかったその情報を何故君が?」

「この際理由はどうでもいいでしょう。私がここに来たのはそれをあなたに売るためです。欲しがってたでしょう?コイツ私刑にかけてたのもそれ目的だったわけだし」

 アステガの肩に手を置きながらジーマンは己が目的を話す。

 本当にゾウカ出版に関する情報が手に入るならば無視はできない。同志を失って事を成す力を持たない今の自分だが、志を失くしたつもりはない。そこに追っていた悪への手掛かりがあるならば手を伸ばさないわけにはいくまい。

 尤も、それが本当ならばだが。

「……偽の情報でないとどうやって証明する?」

「小さい方を開けてみてくださいよ。それ見てから判断してください」

 言われた通りに二枚ある封筒の小さい方を手に取り、封を切る。中には領収書の控えとレポートのコピーが入っていた。どちらにも同じ名前の記載がある。

 領収書を見れば名前の隣には判子。約二年前の年月日と一般的な学生にとってはそれなりに高額であろう金額が手書きで書かれ、隅にはゾウカ出版という名前がロゴマークと共に印刷されている。

 連絡先や住所などの記載がどこにもないのが奇妙ではあるが……。

「その名前の学生ですが、今も学院に通っているのを確認しています。三年生だったかな。知り合いってわけじゃないんで本人に確認がしたいならご自分でどうぞ」

 ジーマンはそう言ってこちらに判断を促す。それ以上の信憑性の証明は難しいということか、それとも確認をとられても構わないほど信用できる情報ということなのか。

 領収書の控えは普通外部に漏れることはない。これが本物なのだとしたら、もう片方の封筒にはこれと同じレベルで内情に迫った情報が多量に詰まっているのだろう。

 ──この商談に乗る価値はあるかもしれない。

「対価は何を?」

 私の返答を聞いたジーマンは嬉し気に両手を一度パンと叩いてアステガを振り返った。

「よおっし!これで取引の場はできたわけだがどうする?続きはお前から話すか?」

「そうだな」

 そう促したジーマンは後ろへと引っこむ。反対に一歩引いた位置にいたアステガは交代するように前に出た。そして私達四人を一人一人見下ろしてから、口を開く。

「今度の文化祭でステージに上がりたいが人手が足りない。手を貸してくれ」

「ステージに上がりたいっていうのは、具体的に何をするの?」

「軽音楽のライブ」

 王子の挟んだ問いに返ってきた言葉は予想外のものだった。

 軽音楽──ジャズやポップス等の大衆向け音楽のこと。つまりわかりやすく言うとこの二人はバンドメンバーを募っているということか。

 対価の内容は理解したが……その勧誘を私達に対して投げかけるのはあまりに不可解に思える。その手の楽器を持った姿を見せたことはおろか、事実として持った経験すら一度もないのに一体何故?

「それは……明らかに人選ミスではないか?私は軽音楽のイロハを知らないし興味もないぞ」

「腕前はどうでもいい。やったことねえのは俺も同じだ。とにかくツテがねえんだよ。頼む」

「ちょ、ちょっと待って。未経験なのにどうして突然やろうと思ったの?」

「ど、どういう事情を抱えてるのか説明はするべきじゃね?」

 当然のように加速した困惑に王子も思わず疑問を口にせずにはいられなかったのだろうヴァルサスもそれに乗っかった。一人だったら私も同じ問いを投げただろう。

 問われたアステガは黙り込んでしまう。その表情は変化が乏しく、見ていても答えに困っているのかそれとも話したくないのかイマイチ読み取れない。そこに助け舟を出したのは引っ込んだはずのジーマンだった。

「あー、それは俺から説明しますね。コイツのツレに最近嫌なことがあってふさぎ込んで……こんなこと他人様に言うのもアレだが引きこもっちまった女がいまして。そいつのためにどうしても何かしたいんだと。だが何もいい案が思いつかず迷走した末、『なんでもいいから笑われちまおう』ってことになったってワケですな」

「おい」

「ここはあちらの言い分が正しいよ。協力を得るためなんだからこんくらいは堪えろって」

「……チッ」

 彼らの事情を聞いた私の脳裏に何故か先程の自問が浮かぶ。

 不要と感じたものに『何故』と疑問を投げかけることをかつての自分はしただろうか?

 

 *

 

 そんなことをしている場合じゃないという自覚はあった。

 僕には新しいサークルを立ち上げるという目下の目標がある。

 ヴァルサスも先輩も協力してくれている。シロツキ教授も顧問になることを前向きに考えてくれている。

 周りの人達の厚意を無下にするわけにはいかなかった。

 それでも、アステガの抱える背景は僕の中の何かを突き動かす。

 

 ──そいつのためにどうしても何かしたいんだと。

 

 今しがた聞いた言葉が胸の中で反響する。

 

 頼み込まれてもなお答えを渋る先輩の顔を見る。

 安易に首を縦に振らないのは、彼なりの気遣いもあってのことなのだろうことはいくら鈍い自分でもわかった。

 僕は──

 

〈選択肢〉

 他をあたった方がいいかも……

>手伝ってあげようよ

 

「手伝ってあげようよ」

 衝動のままに、そう背中を押す。

 甘いと思われるだろうか。

 例えそうだとしても、見なかったことにはできなかった。

 好きな人のために頑張ろうとしている人が助けを必要としている。

 そんな事実に、好きな人に振り向いてもらおうと頑張りたいと思う僕が情を持たないわけがなかったんだ。

 キリヤナギという人間が動くに足る理由なんて、それだけで十分だ。

 

 

「手伝ってあげようよ、先輩」

「王子?」

 その提案に、その場にいた人間全員があっけにとられる。声をかけられた自分も、反応を返すだけで二の句が告げられない。

 王子から援護をもらえるとは思っていなかったらしく、アステガとジーマンもまた驚いた様子で固まっている。

「アステガ、あと何人必要なの?」

「…………ジーマン」

 把握してないのか。やるとしたらリーダーになるのは君だろうに。

「最低でもあと二人はいると思うぞ。あの曲のバンド四人だし」

「そっか。僕、殆ど音楽やったことないけどいい?」

「ま、待て待て待て。何故王子が首を突っ込もうとするのだ」

 自分を置き去りにして交渉を進めていく王子を慌てて制止する。これで逸ってしまっていることを自覚してくれればよかったが未だ表情は真面目なまま。

 この顔は知っている。王子が私に挑んできた時と同じ。これは『こうと決めた』時の顔だ。

 何だ?何が彼をここまで乗り気にした?

「先輩。困ってるみたいだし協力してあげよ? 楽しそうだし」

「おいおい、『タチバナ』どうすんだ? 生徒会もあるだろ?」

「ちゃんと考えるから大丈夫。生徒会も今回は余裕あるし」

 同じく待ったをかけて同じ結果を迎えたヴァルサスと顔を見合わせる。彼は呆れた様子で肩をすくめて「これはもう言っても聞かないぞ」と声に出さずに語ってきた。

「ほんっとう、物好きね」

 それまで会話に一切入ることのなかったククリール嬢が初めて口を開く。その声色には少しの愉快さが含まれているように聞こえたが、そこにはきっと踏み込まない方がいいだろう。彼女の立場を考えても、私個人の感情を考えても。

 二人が止めることを諦めてしまった以上、私だけが折れないわけにもいかない。周りに聞こえないように気をつけて溜息をついた。

 

 ──今一度、思索に耽る。

 一見不要と感じるものに価値を探る努力。それが私に欠けていることは認めている。

 しかしそれが本当に自分にとって必要なものなのかは実のところ判断がつかない。

 悪を切り捨てて善を成すことのどこが悪いのか。

 善を押しのけてまで悪の持つ別の側面を探ることのどこが善いのか。

 また、自分が行う善悪の判断が今の自分にとって本当に正しいと言えるのかどうか。

 恐らくこれは実際に一度努力してみて判断するよりほかにないのだろう。

 そして今、おあつらえ向きに相容れない存在が目の前にいて、それを近くで観察する機会が巡ってきている。

 ここで逃げるのはただの努力の放棄だ。対価の情報を抜きにしてもやるしかない。

 アステガがその女性を救えるのかどうか。その結末に私が価値を見出せるのかどうか。

 この目で見極めてやる。

「全く、王子がやるならついていかないわけにはいかないな」

 

 こうしてアステガをリーダーとした私達四人のバンド活動が始まった。

 全員が講義を終わらせたあとで再度集合し、具体的な方針を会議する。

 バンド名はククリール嬢が何気なく発した「bouquet(直訳で花束)」に決まり、シロツキ教授への参加申請も無事クリア。

 コピーする演目はアステガ達の方ですでに決めているらしく、ジーマンの通信デバイスに入っている音楽配信アプリでその曲を聞かせてもらう。そしてパート分けを相談し決定。リーダーがスコアブックを調達するまでに各々自分の楽器を手に入れることを最初の課題としてその日は解散とした。

 演奏の出来が重要でないとはいえ形になっていなければ舞台には上がれない。文化祭までの残り少ない時間でどこまでやれるか。

 今まで味わったことのない類の高揚とほんの少しの不安を抱えながら帰路につく。昨日よりまた冷たくなった秋風と薄い雲に陽光色づく夕空がその心を映しているようだった。

 悪くない。

 

〈商店街にある楽器店 夕方〉

「おや、キリヤナギ王子」

 楽器店の重い扉を押し開けたら自分の名を呼ぶ声がした。

 運び慣れていない荷物をぶつけないよう慎重に扉を抜ける。客の入店を知らせるチャイム音が響く。日が傾いて冷え始めた外気から逃れられた安心感を得つつ店内へと目をやると、今しがた聞いた声と情報が一致する知り合いの顔を見つけた。

「アステガとジーマンも来てたんだ?」

「おう」

「どうも、お手に抱えてらっしゃるのはベースですかね?昨日の今日でもう手に入れられたとは心強い」

「今の僕は学生だから、無理に敬語使わなくても大丈夫だよ」

「あら、そう?そんじゃお言葉に甘えて」

 言われてすぐに砕けた口調で話し始めたジーマンの変わり身の早さに苦笑し、改めて店内を見渡す。

 所狭しと展示された、照明を反射し輝くエレキギターの数々。無数の薄い冊子が縦置きで詰められた本棚。一角にはたくさんのカバン紐のような商品(後に知ったがギターストラップというらしい)や、自分では何に使うのか見当もつかない機械などが並べられている。

 その楽器店は軽音楽器を主に取り扱っているというだけあって、どこを見ても自分とは無縁そうな光景が広がっていてそわそわしてしまう。

 顔見知りの二人がいたという事実に少し安心感を覚えると同時に感謝したくなった。一人では店に入っただけでどうすればいいかわからず立ち尽くしていたかもしれない。

「そんで、王子は何だってここに?」

「王宮で楽器を色々見つけたんだけど、弦が張ってなかったり錆びてるっぽかったりで……。それで友人の紹介でここなら整備してくれるんじゃないかって」

「なるほどねえ。王宮ってなんでもあんのね」

 ジーマンへの答えにあった友人というのは隣国ガーデニアの外交官の息子で、古くからの友人であるカナト・アークヴィーチェのことである。気軽に相談できて音楽の心得もあるということで、キリヤナギが真っ先にカナトを頼るのは自然な流れであった。

 軽音楽に関しては専門外ということもあり戸惑いつつだったが、相談に応じてくれたカナトの調べでオウカ町内で楽器の修理や整備もやっているという楽器店──即ちこの店の存在に辿りつけたのだった。

 閑話休題。

「二人はなにしてたの?」

「スコアブックとか必要なものを色々と調達しにな。楽譜、買ったらコピーして渡すから」

 見ると、アステガが一冊の本を手にしていることに気づく。色彩豊かでありながらシンプルなデザインの表紙に不思議と目を引かれた。

 楽譜、と聞いて考えになかった不安が頭を過る。

「……でも僕、楽譜なんて読めないんだけど大丈夫かな?」

「ご心配なく、普通の楽譜とは別にタブ譜ってのがあるんだわ。そっちにはどの弦のどこを抑えればいいのかが直接的に書いてあんのよ」

「へえー……」

「それでも不安ならあとで一緒に見ようぜ。俺だってまだ実物見てねえわけだし。ほら、それより店員さんに楽器預けてきなよ」

 ジーマンに促されて店の奥にあるカウンターへ歩を進める。内側に座っていた店員がこちらに気づいて読んでいた雑誌を閉じた。

「すみません、昨日連絡したキリヤナギですが」

 片耳にだけたくさんついているピアスとピンクのメッシュがかかったセミロングの黒髪が特徴的な女性の店員で、キリヤナギが声をかけると、隈だらけの目を細めて笑顔を作った。外見からして普段周りにいないタイプだからか気後れしそうになるのを堪える。

「はいはい楽器の整備の方ですね。話は聞いてますよ。それじゃあ早速貸してもらえます?」

「はい、お願いします。それと、張り替える弦を新しく買うんですけどどういうのがいいのかわからなくて」

「そですか。んー……このベースに初心者なら四本弦ってことだけ注意してればどれでも大丈夫だと思うけど──」

 そうしてわからないことは素直に相談しながら手続きを進めること数分。

「はいそれでは何十分かいただきますんで店内でお待ちください。出来上がったらお名前お呼びしますんで」

「よろしくお願いします」

「ヤナギランさーん。ベースのネック調整と弦の張替えお願いしまーす」

 必要な全てのやり取りを終えると店員は楽器を持ってバックルームへと歩いて行った。恐らくあの奥に整備を担当する店員がもう一人いるのだろう。

 緊張の糸が切れて安堵の息が漏れる。慣れないやり取りをしたせいか疲れがどっと押し寄せてきたのを感じる。

「終わったか」

 声に振り返ったら、アステガがそこに立っていた。目当てのものが揃ったのか先程の本に加えてもういくつかの商品を手に持っている。

「うん。揃ったの?」

「ああ」

 簡単なやり取りだけで会話が終わる。あとに残った沈黙に、なんだか気まずい空気が流れる。

 せっかくこれから一緒にバンドを組んでいく仲間になるのだからと、できる範囲でいいからアステガとも仲良くしたいとキリヤナギは思っていたのだが……なるほど、ここまで無口となるとどうやらこちらからなんとか会話を振らなければ彼の人となりを知ることは難しそうだ。

 しかしこうもとっかかりが無いとなるとどう話しかければいいものか。

「おっとお待たせしましたお買い上げですねー?」

 思い悩んでいたらバックルームから店員が返ってきて接客を始めてしまった。

 なんだか居心地が悪くなってしまいその場を離れようとしたところで、カウンターから少し離れたところでジーマンが手招きしているのに気づいた。

 近づくと、ジーマンはこちらの肩に手をやりつつやや小さな声で話す。どうやらこれから話すことはアステガに聞かれたくないらしい。

「アイツ相手に話したいことあるなら遠慮せず言っちまったほうがいいぜ」

「……そんなわかりやすいかな。僕」

 強く否定するつもりはないが「わかりやすい人」と思われてしまうのは何故だか喜ばしいことではないような気がした。それには答えずに渇いた笑いで返し、ジーマンは続ける。

「俺達王子には感謝してるんだよ。あんたがやる気出してくれたからマグノリアも決心がついたとこもあるだろうし、おかげでバンドやる段取りがなんとか整いそうだ。照れくさいからか、今言うのが筋じゃねえって考えてんのか口には出さねえけど、アイツも同じ気持ちのはずだぜ。改めてありがとな」

「僕はやりたいと思ったことをやりたいって言っただけだから……」

「ハハハ、照れない照れない」

 そうして手を置かれていた肩をぽんぽんと叩かれる。本心からの言葉で本当に照れているわけではないのだけれど。

 昨日抱いたアステガ達を手伝いたいという衝動を思い出す。再確認。やはりこれに従ったことを自分は後悔するつもりはないらしい。

「まあだからってわけじゃないが、あんたからの話なら邪険にすることはないさ。アイツ無口で粗暴で間抜けなとこはあるが馬鹿じゃねえからよほどやらかさない限り噛みついたりはしないよ」

「誰が間抜けだ?」

 声に振り返ると買い物を終えたらしいアステガがいつの間にかそこにいる。詰められているのは自分ではないのに血の気が引く心地がした。

「スマン俺が悪かった」

 その本気で怒っているのかわからない無表情に向けてジーマンは即座に早口で謝罪の言葉を放つ。判断が早い。

 いい加減ともとられかねない謝罪の形にアステガが気にした様子はない。こんなやり取りも彼らにとってはいつものことなのだろうか。

「この店、防音スタジオを借りられるらしい。毎年学院の文化祭へ機材の貸し出しもやっているんだとよ」

「へえ、ならここで練習させてもらえば当日慣れない機材に混乱することもねえわけだ。……その情報聞き出したの?お前が?」

「勝手に喋ったのを聞いた。馴れ馴れしいんだよ、あの店員」

「納得だわ。なら詳しい話聞いてきますかね。二人ともちょっとここで待っててくれ」

 そうして再びアステガと二人になる。

 カウンターに向かうジーマンの背中を目で追いながら、声に出さずに感謝する。恐らく会話の糸口を掴めない様子を見かねて気を遣ってくれたのだろう。彼がどういう人間なのかがなんだか少しわかった気がした。

「アステガ」

 話したい事があるなら遠慮せずに言った方がいい。その助言に従い、アステガを見て言う。

「がんばろうね」

「……頼りにするぜ」

 

 それから本格的にバンド練習が始まった。

 新しいことに挑戦する興奮、技術不足によるもどかしさ、メンバー同士の意見の食い違い、皆と息が合った時の達成感、などなど。色々な経験を楔のように心に打ち込みながらも残酷なまでに時は進む。時計の秒針も日めくりのカレンダーも止まってはくれない。

 体感にしてあまりに短すぎる日々。それをあとから振り返ってみると、自分はただただ必死に乗り越えただけのようにも、楽しさのあまりに無我夢中になって走り続けていたようにも思えた。

 この濃密な時間を将来十年、二十年と歳を重ねた自分がふと思い出すことがあるのだろうか。

 そうであったらいいなと心から思う。

 

 そして文化祭の当日は、思っていたよりあっけなく訪れる。

 

 第三話 終

 

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