〈学院・カフェ 昼〉
待ち人来たらず。
昼時のカフェテリアの騒々しさの中でテーブル席に座り、向かいの空席を静かに睨みつける男が一人。
指定の待ち合わせの時間はとうに過ぎて、眼前に置かれた紙カップの中身は冷め切っている。
忌々しげに舌打ちをする。約束を一方的に反故されたことより、それについての連絡すら寄越さないような人間を、どうでもいいと切り捨てようとしない自分の都合のよさが腹立たしい。
いつまでこうしているつもりなのだろうか、この自分は。
窓から覗く快晴にさえ苛立ちを覚える。苛烈な真夏の日差しと目も眩むような青は正しく今の自らの機嫌とは真逆に映った。
「はあ~~~」
ふと、背後から誰かの大きなため息が聞こえる。そのため息があまりに大げさだったからだろうか。隣のテーブルから流れる談話の声につい、耳をそばだてた。
「ほらそれ。卒業論文の話題になる度に盛大に曇るのやめなー?」
「だって『もうすぐこの生活が終わるんだ』って自覚させられる気がするんだもん」
赤の他人の、自分とは無関係の話。盗み聞きするつもりはなかったのだが、耳に入るその話題に何故だか意識を向けずにはいられない。
「この歳になって今更?私ら皆卒業して何かになる為に学生してるんじゃん?」
「でもだって、ほら、次はもう学生じゃないんだよ?」
「そりゃねー」
「あんただってこの立場に……こう、未練とか、何一つないわけじゃないでしょ?」
「まあ……ね。ないわけないよ?キミや皆と過ごす時間は居心地いいしねー。でも終わる時がどうしたって来るなんて最初からわかってることじゃん?じゃあなるべくいい形の終わりにしようと努力すんのが賢い人間ってもんでしょ」
「理屈じゃないんだよ。やさしくないなあ……」
「やさしいつもりなんだけどなあ。それにさ──」
「うん」
「いつまでも自分の中で終わんない方が、きっとあとからしんどいよ」
「……うん」
そこまで、切りのいいところまで聞いてしまってから我に返る。倫理観からばつの悪さを感じて、それを腹の中に飲み込んで隠滅するように紙カップの中身を空にする。関心の理由もわからぬまま、ただ忘れようとして、飲み下す。
待ち人、未だ来たらず。
いつまでこうしているつもりなのだろうか、この自分は。
どうやら満席のようである。顔を上げると、辺りを見回し席を探している男をすぐそばに見つけた。
丁度いい。こいつに席を押し付けて今日交わした約束は忘れてしまおう。
待ち人が自分に対しそうであるように、自分が相手に感じている価値もまたその程度のものであると証明するように。
きっかけは何でもよかった。
何でもいいから、この時間を終わらせたかったのだ。
*
猛暑を避けるように扉を潜る。冷房の効いた室内へと全身を沈める。
学院内で運営されているカフェに足を踏み入れて、キリヤナギはその盛況ぶりに驚く。昼過ぎの丁度ティーブレイクに相応しい時間とはいえ、ここまでの規模は記憶にある限り覚えがない。
空席を探し店内を見回る。学院施設という環境のためか、このカフェには店員が席を管理するシステムが存在しない。当然、入店時の案内や受付などもなく、利用者は席を自力で探して確保することになっている。
一回りしたが成果は上がらず終いだった。友人との待ち合わせの時間はすぐそこまで迫っている。もうじき来る夏季休講について皆で楽しく談話するつもりが、このままでは四人全員仲良く立ち往生だ。
(困ったな)
ふと席ではなくそれに座る客の方を注視すると、行き場に迷っている自分の姿に対し複数の視線が向けられていることに気がつく。奇異というより後ろめたさを伴ったものに感じられるそれは、感づかれたことを察したのかすぐに逸れて消えてしまった。
一国の王子が満席に困っている光景と言葉にしてみると、なるほど確かに物珍しく、また放置しづらいものなのかもしれない。
(き、気まずい……)
そう、キリヤナギはこの桜花国唯一の王子であり、彼もまたこの学院に通う学生である。
すべての学生を平等なものと扱うこの学院の風潮はキリヤナギの立場に対してもまた例外ではなく、だからこそこの場においても誰も着席の権利を譲ったりはしない。
キリヤナギにとってその扱いは望むところなのだが、人々の内心まではそうはいかない様子である。相手が王子という立場である以上、『譲った方がいいのではないか』という呵責が生じるのだろう。それは否応なしに視線という態度となって表れた。
不幸なことに、キリヤナギはそういった機微には敏感であった。
居心地の悪さにたまらずその場を立ち去ろうと踵を返す。どの途、満席であるならば諦める以外に仕様が無い。
「席、使うか?」
それを、背後からの低い声が引き留めた。
振り返ってみたらそこにもテーブル席、そして椅子の背もたれに体を預けて座る一人の男がいた。
長躯と後ろで纏められた長い黒髪が特徴的な男だった。その前髪の間から覗く紫の瞳と目が合う。下からこちらを見るその目つきは睨むようで、つい萎縮してしまいそうになるような威圧感を放っていた。だらしないようにも不機嫌そうにも見えるその座り方や、黒い長袖シャツにジーンズという服装に頓着がなさそうな出で立ちも相まって近寄りがたい雰囲気を感じる。
悪いなと思いつつ、そのなりと席を譲るという行為にギャップを感じてしまったキリヤナギは反応が遅れてしまう。先程周囲から感じた視線にはあったばつの悪さがこの男から全く感じられなかったのも理由かもしれない。
つい辺りを見渡して自分以外に立ち姿が見当たらないことを確認した。
「僕?」
思わず本人に確認をとってしまう。
「テメェ以外誰がいる。で?いるのかいらねえのか」
やはり席を譲ろうとしていることに間違いなかったらしい。それに対しキリヤナギは──
〈選択肢〉
>いいの?
結構です!
──恐る恐るではあるが、言葉に甘えたいと思った。せっかくの厚意を無下にしては彼にも悪いだろう。
しかしテーブル席に一人ということは彼もまた人を待つ身なのかもしれない。もし無理をしているのならば、という万が一を考えた。
「いいの?でもそれだと君が困るんじゃあ……」
「なら空けるから勝手にしろ」
「ええ……」
言うや否や、男は問答無用で席を立ち、足早に歩いていく。お礼を言う暇さえ与えないその態度から察するに、どうやら万に一つも無さそうである。
今まで彼が座っていた席の背もたれに手を乗せる。そして去っていくその背中を見送った。
と、カフェのエントランスに見知った人間の姿があることに気がついた。
整った金髪に潔白な白シャツ姿の細身の男性、キリヤナギが待ち合わせしていた友人の一人であるアレックス。会話していたところを見ていたようで、彼もまた去り行く男の姿を目で追っている。
すれ違ったあと、振り向いてまでその背中が出て行ったのを確認すると、即座にこちらへ向き直り足早に近づいてくる。その表情は心なしか普段より強張っているよう。
いかにも焦っているということが見て取れるその余裕のない様子にキリヤナギは予感する。いつも冷静沈着であまり感情を表に出さない彼が焦りを僕に感じ取らせるなんて、どうも只事じゃあないぞ。
「待たせた。今のは……知り合いだったのか?」
それを裏付けるように、挨拶もそこそこにアレックスが切り出した話は今の男についてだった。
「ううん。満席で困っていたら席を譲ってくれて」
「────」
正直に経緯を話すと、それを聞いたアレックスは僅かに目を見開いて固まる。
アレックス・マグノリア。この桜花国に存在する七つの領土を治める領主の血筋『七貴族』の一つ、マグノリア家の嫡子。
年齢はキリヤナギより一つ上で、人の上に立つ者としての心構えや面目の重要性を人一倍理解し、自分の立場に相応しい人間であろうと努められる人。
そんな彼が驚愕を相手に悟らせるのは、焦りよりさらに輪をかけて珍しい。どうやら今の言葉がよほど信じられないらしい。
そしてその反応は話題に上がっている人物の人となりを知っていなければありえない。そうキリヤナギは判断し、質問を投げかける。
「彼がどうかした?」
すぐには答えず、アレックスは口元に掌を当てて隠し、考え込むような素振りをする。すると、逸らした目が何かを捉えたようで、その手をそのまま挨拶するように軽く宙に上げた。
「……まずはオーダーを済ませよう。残りの二人も到着したようだ」
言われてエントランスを見る。そこには待ち合わせの約束をしていた残りの二人、ククリールとヴァルサスの姿があった。
「そうだね」
返事をして、キリヤナギは席に鞄を置く。そして近づいてくる二人を見ながら、真夏の日差しを避けてゆっくりと話すことができるという事実はどうあれ喜ぶべきなのだろうと安堵した。
*
木製のテーブルの上に飲み物と軽食、そして四人が休講中に予定している旅行についての資料が並ぶ。
腰を落ち着け一息つく。後から合流した二人の未だ余裕のない様子から、彼らが屋外の熱気を忘れるのにはまだまだ時間を必要とするだろう。その間にと、キリヤナギは考えてアレックスに改めて訊ねる。
「打ち合わせの前に聞きたいんだけど、マグノリア先輩はさっきの人と知り合い?」
その問いに、アレックスは答えにくそうに少し間を開けた。どう説明するべきかを未だに決めかねているのだろうか。それほどに答えにくい話なのだろうか。
「……あれはアステガ・ルドベキア。講義のサボタージュの常習者だ。あれと何かあったのかを話す前に、お前たちはこの学院に存在するレポートなどを有料で請け負う集団のことを知っているか?」
「え?なにそれ知らない」
キリヤナギは即答する。学業を商売のタネにするという発想自体考えつきもしなかったために、その存在に対してまず抱いたものは嫌悪よりも関心だった。
「生憎そのような手合いとは私無縁ですので」
不機嫌そうな表情で額の汗をハンカチで拭いながら、興味なさそうにククリールは答えた。
ククリール・カレンデュラ。アレックスと同じく『七貴族』の一角であるカレンデュラ公爵家の令嬢。キリヤナギとは数年来の知人であり、初恋の人でもある。
艶のある短い黒髪を持ち、落ち着いた色の高級そうなサマードレスを着こなすその外見もさることながら、内面もまた貴族でありながら誰に対しても礼節を重んじた立ち振る舞いを崩さない。その在り方は、すでに公爵令嬢としての自立を目指す一人の大人のそれである。
そんな彼女だからか、学生の問題行動に直接関心を示すのは自分の役目ではないと割り切っているのだろうとキリヤナギは納得する。彼女のことはまだまだ深くは知らないけれど、それでもこの姿勢は彼女らしいと感じた。
「噂は聞いたことあんな。あー、お前そういうの嫌いそうだよな。なんとなく話読めたわ」
その真逆に、ヴァルサスは得心が行った様子で話に反応する。
ヴァルサス・アゼリア。騎士貴族アゼリア家の人間だ。
騎士貴族と言ってもその身なりは一般人とそう変わらない。爽やかな黒の短髪とカジュアルな紺の半袖シャツという装いは、まさにどこにいても目立たない夏場の青年といえるもの。
見た目と同じく親しみやすい人間性を持っており、彼の存在は王子としての息苦しい生活に辟易することもあるキリヤナギにとってはかけがえのないものだ。
「その理解には釈然としないがまあ置いておく。私が王子の挑戦に敗北するまでの間どうであったかは皆知っての通りだ。生徒の堕落を促進させるそうした集団から学院を浄化するのもまた人々をまとめ上げる貴族としての務めであるとして、かつて私はその集団の元締めを追っていた。その中で欠席が目立つというのに成績評価は不自然に良いあの男の存在に行きついたというわけだ。結果としては空振りだったのだが」
「ふーん……」
「それだけのことだ。今にして思えばこれという証拠もなく尋問めいたことまでしようとしたのは強引が過ぎたかもしれないが……」
そこまで聞いてキリヤナギは納得する。話の通りならば、アステガが『アレックスの友人と認識した相手』に話しかける理由として真っ先に浮かぶのは報復辺りになるのだろう。
自分のかつての行いにより、友人が迷惑を被る可能性があると考えれば、先程の彼の焦りも当然だ。真実を知って拍子抜けしたことも想像に難くない。
「随分丸くなったっつーか」
「先から気安いぞ貴様」
「もう、そんな関係のない話は終わりにしてくださらない?時間の無駄だわ。本題に入りましょう」
ヴァルサスがからかい半分の言葉を投げ、アレックスはそれに不服の色を出し、そのやり取りをククリールは切り上げる。
互いが互いの懐に入り込まない、戯れのようなやり取りが過ぎて何事も無かったかのように四人は元の日常へと戻っていく。
そうして始まった歓談に加わる前に、キリヤナギは今座っている席を譲ってくれた男の姿を回想した。
(アステガか……。今度どこかで会ったら今日のお礼を言わないと)
桜花物語 サブシナリオ
初恋のおわりのうた
〈学院・講義棟正面 昼〉
「アヅキさん、そろそろ帰ってくるころでしょ」
感情の無い声が帰路につくアステガの足を止める。街路樹から降りそそぐ蝉の声の中だったので、危うく聞き漏らしそうになる。
第一声にしては唐突すぎる台詞。その声が先程までは待ち人であり、そして今は逃げようとしている相手のものである事実にアステガは辟易して溜息をつく。本当に聞き漏らした振りをして逃げ出してしまおうかと逡巡したが、それはそれで後々面倒なことになるという確信があった。
振り返れば、少し離れた位置に一人の女性が立っている。
成人女性の平均と比して目に見えて低いだろう背に、対照的に腰まであろうかという程に伸ばした銀髪はツーサイドアップにしている。上下黒のパーカーとプリーツスカートという装いで真夏の日差しの下に立つ姿は見るからに暑苦しい。
全体的に色味の無い中で異彩を放つ赤の瞳を持つ目には友好的な色は無い。見る者に幼い印象を与えるだろう見た目とは裏腹にこちらに向ける視線は冷たいものだった。
そのあべこべが服を着て歩いているような姿は間違いなくアステガのよく知るユリアのもの。
「会わせてよ」
続けて彼女は要求する。
自分から言い出した待ち合わせの時間を大幅に遅刻したことへの謝罪も、なおも別の人間への橋渡し役として相手を使おうとすることに対する弁解も無し。
これではもはや対等な人間同士の会話ではなく一方的な命令だ。いつものことながら、人を人として見ていないようなその不遜さにアステガは苛立ちを通り越して呆れを覚えた。
「嫌なこった」
吐き捨てるように拒絶を返す。ユリアの表情が険しくなる。
「なんでよ。ずっと協力してきたくせに今更断られても困るんだけど」
「知るか。それはテメェが勝手にあいつ目当てで俺の周りをハエみてえに付きまとってきただけだろ」
幼い頃からの付き合いの二人だが、会話の様子は幼馴染というにはあまりにそぐわない。その配慮に欠けた遠慮のなさは、明らかに親しさからくるものではない。
それもそのはず、ユリアは最初からアステガに対して“こう”だったし、アステガもまたそんなユリアをこれまで追い払わなかっただけ。
こうして片側が気まぐれに切ってしまえば崩れるような、ただ息が長いだけの、その程度の関係だった。
「第一、会ったってロクに喋れもしねえクセに。こんなこといつまで続ける気だ。付き合うこっちはいい加減ウンザリなんだよ」
「…………」
怒気を含んだ声で突き放すアステガを、ユリアはただまっすぐ睨みつける。睨むだけで何も言い返さない。
そうして何も返せないことはつまり、返す言葉がないという証明か。まるで反抗の余地がない子供が不満を目で訴えるかのようなその有り様に、睨みで返しながらアステガはユリアの言い分を待つ。
五秒……十秒……これ以上癇癪に付き合う義理はないだろう。
「イライラさせやがる……。もう用がないなら帰るぜ」
喚かない程度には分別がつくならこれで話は終わりでいいだろうと、アステガは早々に会話を切り上げてユリアに背を向ける。
この拒絶が正当なものであるという確信とは裏腹に、喉につかえるような後味の悪さや後ろめたさを感じてしまう理不尽。
(うざってえ……)
それらを吐き出すように内心で毒づき、全てを気の迷いと切って捨てて歩を進めた。
その遠ざかっていく背中を、ユリアは見えなくなるまで睨み続ける。
「なんでよ、今更……」
抑えていた感情が溢れるような呟きが口から洩れたのは、その背が見えなくなったあとだった。
それが幼さ故の、やり場を無くして空に向かって振りかざされる八つ当たりでしかないことを自覚できないまま。
〈オウカ町郊外 夕方〉
鉄道を利用して学院のある都心を出る。
いつもの家路。桜花国の首都であるオウカ町の郊外に位置し、ベッドタウンの一つである町の駅にアステガは降り立つ。
西日。瞼に重たい橙色と昼間より幾分か優しくなった日差しが、一日の営みを終えようとしている人体の眠気を誘う。誰に見られているわけでもないのに欠伸を噛み殺した。
自分と同じく帰路につく人々の流れに任せるようにホームを歩き、ゲートの読み取り機器に通信デバイス(注・携帯可能なサイズの通信端末全般を指してこう呼ぶ)をかざして決済を完了。
駅を出てさらに歩く。歩数が嵩むのと反比例するように、周囲の街並みがみすぼらしくなっていく。町の中心である駅周辺から離れるにつれて、構成する物件が不便で不人気なものになるのは必定だ。
歩くのを億劫に感じ始めるかどうかという時間歩を進めると、辺りは背の低い集合住宅が目立つようになる。そんな景色の中に紛れ込むように存在する少し古びた一軒家。そこがアステガの自宅である。
郵便受けに無造作に突っ込まれたチラシの山を気にすることなく、アステガは入口である引き戸を開けて中に入る。挨拶は無い。基本的に、自分以外の人間がこの家に帰ることはないのだ。
だからだろう。つけっぱなしになっていた玄関の電気を外から見ても、昨日の夜に自分がつけてそのままうっかり消し忘れでもしたのだろうと気にすることはなかった。
それが実際には違うことに気がついたのは、玄関で自分のものではない靴を目にしてからだった。
『アヅキさん、そろそろ帰るころでしょ。会わせてよ』
先刻聞いたユリアの言葉を思い出し、気が滅入る。
(ビンゴかよ。気色悪ぃ奴)
その毒を口に出して吐かなかったのは、靴の持ち主だろう人物が近づいてくる足音がしたからだった。自分が帰宅した気配を感じ取って出迎えにきているのだろう。できることなら会いたくも話したくもない人間だ。話題を提供してやることもない。
「おかえり、アステガ。僕もさっき帰ったところだ」
玄関に姿を現したのは紺色の着物に身を包んだ黒髪の中年男性。ユリアの預言した通り、アステガの父親、アヅキだった。
人の苦痛など素知らぬという風で穏やかな笑みを湛えたその顔を見ると、連想によりユリアとの会話の記憶とそれによって生じた不快感がぶり返してくる。応える気になれないままアステガはただ溜息をついた。
「人の顔を見て溜息というのは感心しないな」
(誰のせいだと思ってやがる)
「いつも留守にしてしまってすまない。今度も明後日にはまたひと月ほど仕事で家を空けることになるんだ」
聞いてもいないのにアヅキは語る。いつものことだろとまた心の中でだけ一人ごちる。これまでの暮らしの中で、この男がひと月に三日より多く家に留まっていたことなどなかったはずだ。
このアステガの唯一の肉親であるアヅキこそユリアの幼少の頃からの恋心の対象であり、ユリアがアステガに付きまとう理由であり、そしてアステガにとっての最大の悩みの種である。
大して言葉を交わしたわけでなくとも何年もの間、たまの帰宅の度に自分に会いにくる女性がいればそれが何らかのアプローチであることくらいは察することはできるだろうに、果てはいつかアステガに直截に言われても尚、この男はユリアの恋心に気づかない。否、それが恋心だと認めようとしないのだ。
それは憧れのようなものだと。誰もが最初は恋と間違い、いずれ気づき、醒めるものなのだと。
つまり当然はっきりと拒絶することもない。ユリアが成人してもなお子供の頃に抱いた不毛な恋に人生を浪費してしまっているのも、自分がそれに巻き込まれる度に面倒な思いをするのも、全てこの男のせいだとアステガは考える。
「アステガ」
なおも続く中身のない話に何も反応を返さず、自室へ引っ込もうとする自分を呼び止める声。続く言葉が来ないまま、ただ待つのも居心地が悪くアステガはアヅキへと向き直った。
そうなって初めて会話が成立した。
「何だよ」
「学院は……最近どうなんだい。その、上手くやれているだろうか。友達……ユリアちゃんとは」
「話すようなことは何もない」
聞きたくもない名前を放つ口に蓋をするように会話を切る。
それきり、その日のこの家庭に会話が生まれることはなかった。
〈学院・図書館 夕方〉
時針が二周して、舞台を学院に戻す。
モニターに流れる歴史の映像資料を興味なく見つめる。イヤホンから流れるスクラッチノイズ混じりの音声をただただ聞き流す。独り既に記憶に収めた情報をただ眺めるだけの時間が、今のアステガの精神には癒しであった。
成績通知書を受け取り今期の全ての課程を修了したアステガは帰宅することなく図書館で時間を潰していた。日が沈んでから家路につけば、そのころには会いたくもない父親の姿はまた消えていることだろう。
閉館時間が迫る。夕陽に染まる視聴覚閲覧室には自分の他に人影はない。ちょうどもの悲しい音楽と共に流れ始めたスタッフロールが退館を促しているようだった。
〈学院・図書館前 黄昏時〉
「長いんだよな、夏季休暇って」
図書館を出て、傍に設置されている喫煙所を横切ろうとしたアステガは聞き馴染みのある声に立ち止まる。そこで煙草をくゆらせている赤い髪の痩せた男もまた一人。であればその言葉は自分に放たれたものに違いない。
「そんでもって退屈だ。学生のコミュニティは個々で閉じちまってちょっかいかけづらくなるわ、教授のスケジュールの把握もしづらいからコネを作るのにも適さないわ、そうなると当然俺みたいな無所属はおいしい情報一つ手に入れるのにも苦労する。こういう時だけサークル活動とかで馬鹿面晒してる奴らが羨ましくなるわ。なあ、そう思わねえ?」
そう言い空に向かって溜息代わりに煙を吐く。同じく第一声にしては唐突な言葉であるものの図々しさしか感じられないユリアのそれとは違って、無駄に情けなさを演出するその様には『勝手知ったる』とでも言いたげな親しみを聞く者に感じさせる。
「まだいたのか、ジーマン」
「自覚無いかもだから言うけどその返しは酷えしいつまでいようと俺の勝手だしお前も言えたことじゃないからね!?」
「元気じゃねえか」
「おかげ様でな!」
ツッコミそのままの勢いでジーマンと呼ばれた男は灰皿に煙草を放り込み、構わず歩を進めだしたアステガを追うように足早に歩きだす。先ほどの沈んだような口調はどこへやら、振り返ってその姿を確認したアステガの目には見慣れた薄ら笑いを浮かべる顔。
ユリアを除くとこのジーマンがアステガにとって唯一といえる学院内の人間関係である。やたら顔が広く人当たりがいい外面をしており、それが外面であることを隠そうともしない。そのくせ周囲との関係は悪くないという、『要領がいい』を絵に描いたような男。常にネクタイを締めてフォーマルな服装をしているのも手伝って、何らかの業界人のような雰囲気を醸している。今のわざとらしい演技もまた円滑なやり取りをするための彼の会話術なのだろう。
何を考えてこの男がそんな立ち回りをして、何を考えて自分に親しくするのかアステガは理解していない。理解する気もない。そもそも親しくするつもりもない。そこまで古い知り合いではない筈だが知り合った経緯も忘れてしまった。
「でも実際退屈なのは本音なんだよなあ。お前は?明日からどうすんの?」
「学費稼ぎ」
「だろうと思った。ケッ、俺が商売に誘ってもぜってえYESとは言わねえくせして。前から思ってたがもっと楽して楽しむことを覚えたらどうよ。お前青春捨ててるぜ?」
「気が向いたらな」
「あしらうならもうちょっとそうとわかりにくくしてくれませんかね。軽口言う方も辛い」
「知るかよ」
「これだよ。まあ休み中になんか愉快そうなことがあったら一報くれよ。期待しないで待ってるぜ」
「ああ。勝手に待ってろ」
「俺からも連絡するからよ」
「────」
「その嫌そうな顔が見たかった」
とりとめのない会話をしながら帰路を行く。その途中、学院の敷地内を出るか出ないかといったところでアステガの通信デバイスが通知音を鳴らした。画面を見ると新着メッセージが一件。
『ユリア:来月にけりをつける』
あまりにも突拍子もない一文。つまりはアヅキに想いを伝える最後のチャンスが欲しいという意味だろうとアステガは納得する。
『最後』という言葉を反芻する。自分にとって願ってもないはずのそれを素直に喜ぶ気になれないのは何故だろうか。
「なんだこりゃ?決闘でも申し込まれたのか?」
常識なくデバイスの画面を覗き込んできたジーマンの声がやたら遠くから聞こえた気がした。
火を見るよりも明らかな結末を想像した。結果、その曇天のように重たい心地の理由を自分が他人の不幸を喜べるような神経をしていないが故だろうという結論を得た。
強引さに気づかないふりをする。考えるのも馬鹿らしいと思って思考をやめた。
第一話 終