初恋のおわりのうた 第二話 ─あたしの息を止めて─

 

〈オウカ町郊外 商店街にある喫茶店 夜〉

 暖色の光と穏やかな音楽、そしていくつかの、他の席からは内容が聞き取れない程度の声量で行われる歓談の声。夜の喫茶店内を包む憩いを絵にかいたようなそれら要素は、テーブル席に一人座るユリアの心にはまるで届いていない。

 向かいの空席を見つめてもう一時間にもなるだろうか。それでも待ち人が現れないのはただ単に落ち着かなかった心のままに自分が逸ってしまったが故にであった。

 今日、ユリアはアヅキをこの場に呼んでいる。自分の想いを伝えるために。

 この日の為に、自分の思う最高の装いを用意し、最良と思える言葉を考え、それを最善を尽くしたと言えるほどに伝える練習をしてきた。そうして迎えたこの日は一日千秋の思いで待ち侘びたものだった。

 ──はずだ。はずなのに。約束の時間が近づくにつれて心には不安が募っていく。

 その不安は自分の想いが叶わない可能性からか。或いは現状の関係を崩してしまうことに対してのものか。

 どうであっても後戻りはできない。唯一の協力者には今日全てを決めると伝えてしまっている。あの男の事情など知ったことではないが、その協力を拒まれてしまってはアヅキと自分の関係性はもはや無に近くなってしまう。

 そうなればどの道この恋が実ることはないのだろうから。

 結局一度も口をつけることのなかった飲み物は冷え切っている。まるで今の憂いで満たされんとしている自分の心をまざまざと見せつけられているようで、カップの縁に触れるとひどく不安が増した。

 逃げるように俯く。膝に置かれた掌は汗に濡れて、冷え切って震えていた。震えの原因はそれだと思い込むことにした。

 先程までしていたイメージトレーニングの内容は既に頭にない。今になって、早く来すぎたことを後悔する。

 この待っている時間がいつまでも続いてくれればいいとまで思い始めた時、自分に近づく人影がひとつ。

「お待たせ。ユリアちゃん」

 鼓動が全身に甘い悦びを伝え、頬を紅潮させるのを感じる。

 その感覚に溺れてはいつものように喋れなくなることを思い出し、理性を総動員して顔を上げる。

 虚勢を張るように、真っ白になりかけの頭を上げる。

「こんばんは。来てくれてありがとうございます」

 

〈夢の中〉

 その横顔を覚えている。

 始まりは初等部の授業参観。当時から父親は家を空けてばかりいたが、その日は偶然日程が合ったらしい。あの男が参観に出席したのはその時が最初で最後だったような。それも今にしてみればどうでもいい話だ。

 何の授業だったかは覚えていない。授業が終わったあとで自分と父親がどんな話をしたのかも、しなかったのかも覚えていない。ただ何故かその時自分は父親の傍にいて、もう一人、自分と同じように傍に近づく同級生の姿があったことを覚えている。

 その宝物を見つけたような、見たこともない美しい景色を見たような、

 眩い輝きを瞳に湛えたその横顔だけを、いつまでも覚えている。

 

〈アステガの自室 夜〉

 最悪の目覚めだった。

 視界に移る自室の白い天井。耳に届く窓ガラス越しの雨音。嗅覚は湿気を敏感に感じ取っている。

 見ていた夢の内容がそれらをストレスに変えているのがわかる。微睡みが許されずすぐに覚醒したのはそのせいなのだろう。

 夢に見たその横顔を、未だ忘れられていないことがアステガにとっては甚だ不服であった。あの女に感情を動かされることなどないと、誰にでもなく弁解したくなる気持ちが不快で仕方がない。

 くそ、と小さく毒づく。右手の甲で覆った目に力を込めて眉間に皺を寄せる。苛立ちを態度という形で意識的に出力する──子供じみた発散方法だが、それ以外に今の心理をどうしようもないのが自分だった。

 もう止めだ。どうあれこの人間関係も今日でおしまいなのだ。

 そうしてまた一つの疑問に至った。普段からどうでもいいものと切って捨てていた筈のその関係が、何故今日に限って強烈に意識せずにはいられないのか。

 馬鹿らしい。止めだ。

 寝台から身を起こし枕元に置いていた通信デバイスを手に取る。ロック解除。今日の夜間バイトに備え設定したアラームの時間にはまだ半端に遠い。

 再度スリープさせて黒くした画面。しかしそれはすぐに光を取り戻し、通知音が狭い部屋に響く。確認をすれば、恐らく来るのではないかと予想していた内容のメッセージが届いていた。

 『アヅキ:悪いけど今から教える場所に向かってほしい。そしてそこにいるユリアちゃんを家まで送ってくれないか。これは僕じゃないほうがいい。』

 耳に届く雨音が少し大きくなったように感じた。

 

〈オウカ町郊外 商店街にある喫茶店 夜〉

 似合わない。

 ユリアを見つけた時の素直な感想だった。

 閉店間際の喫茶店のホールに他に人影はない。スタッフがキッチンで片づけを行う音を耳にしながら、アステガは目的の人間の傍へと歩く。

 隣に立ってもまるで気づいてすらいないかのように、ユリアはこちらを見ようとはしない。悲しむでも怒るでもなく、微動だにせず無表情のまま中空の一点を睨みつけている。

 白のブラウスに白桃色のロングスカートを身に着けている今のユリアの姿は、喪服のような黒色で統一された装いばかりを好んで着ていた普段のそれとはかけ離れた雰囲気に思えた。しかしかけ離れているのは遠目での印象だけである。今の不貞腐れたような態度と顔のつくりは子供じみた振舞いしか知らない普段の彼女そのままだ。

 大方合うかどうかを考慮せずに自分が思う『受ける』と思っただけの慣れない服をただ選んだのだろう。今日という日のためだけに。

 その在り方をアステガは酷くあべこべで不似合いなものに思った。

 常ならば他人がどんな格好をしようと興味を持たない筈の自分がである。その似合わないという感想を大きなお世話と理解できる自分がである。

 その事実が、心底気に入らない。

 何十秒そうしていただろうか。変わらずユリアの視線は虚空を睨みつけるばかり。その表情からは一切の思考が読み取れない。

 わかっているのは今日この女の恋が終わったという事実だけだ。

 何年も他人を振り回しておいて、結局はこんな予定調和のような結末。

 それだけで同情に値しないと割り切るには十分だ。

「──呆けてんじゃねえ。立てよ。歩け。引っ張ってなんてやらねえぞ」

 

〈オウカ町郊外 商店街 夜〉

 アーケード商店街を二人歩く。

 視界の両側を後方へと流れていく店の数々は、そのほとんどが一日の営みを終えて眠りについたかのようにシャッターを下ろしていた。数少なく存在する酒処だけが、未だ不夜の賑わいを見せている。

 等間隔で並ぶ街灯の光。ぱたぱた、ぱたぱたと、傘替わりの屋根を叩く雨音の反響。

 影も足音もあいまいにするこのような環境だからか、近くで歩いている人間の気配さえ感知しづらい。アステガは後方についてきているユリアの姿を時々振り返り確認しながら歩を進める。常に地を睨みながら歩く彼女と目が合うことはない。

 最初から家まで送り届けるなんて面倒なことをアステガはするつもりはなかった。このまま進み商店街を抜けてもう少し歩けばこの町の中心である駅へと辿りつく。そうすればタクシーのひとつくらい容易に捕まるはずだという目論見である。

 一度も会話を交わすことなく別れることに原因不明の歯痒さのようなものを感じているのは事実だが、それ以上にこの面倒事を早く終わらせたいというのが本音だった。

 第一、今自分が何かアクションを起こしたところでこちらに意識を割こうとさえしないユリアがまともなリアクションを取ろうとするとは思えない。

 酒処の灯が遠くに消える。もうじき商店街の終点が見えようというところ。

 そこで、アステガは何も言わずに歩を止めた。

「何──?」

 すぐ後ろにいるユリアがそれを訝しんだのだろう。そして声が意味のある文章を紡ぐ前に詰まったことで、アステガはその様子を目にせずとも自分と同様に今の状況に混乱を抱いたのだと察する。

 前方に、道を阻むようにスーツ姿にサングラスで顔を隠した男が二人立ちはだかっている。

 すぐさま後方を確認するが同様、歩いてきたはずの道に同じ装いの男たちがもう二人。

 囲まれている。目元が見えなくとも四人が全員こちらへ視線を向けているのが所作から見て取れた。

 待ち伏せ──つまり自分達が囲まれているのには少なくとも何か理由が、それも衝動的なものではなく計画的なそれがある。混乱を一先ず頭の隅へ置いてアステガは理解した。とりあえず今のところは攻撃的な意思をこちらへ向けていないことは幸いと思うべきか。

 四人のうちの一人が口を開いた。

「君たちには選択肢が二つある。一つ目は何も言わずに私たちについてくること。この国を出ることになり二度と帰ってはこれなくなるが、その後の君たちの身の安全と人権は保障しよう」

 つまりは身柄の確保が目的だと。アステガは投げかけられた言葉を反射的に分析する。

 しかし自分とユリアに共通して存在するような、身を狙われる理由など思い当たらない。二人にあるとすれば共通の人間関係くらいで──そんなものを呑気に考えるのは後にした方がいいと、本能が思考をカットする。

「もう一つの選択肢は?」

 答えのわかりきった問いを投げる。訪れるだろう荒事の初動をどうするべきか──その一点のみに思考を総動員する。

「これでも若者の未来を奪うのは趣味ではない」

「だろうな。答えはどっちもお断りだ」

 用意していた回答を口にした。

 悪意の対象が自分だけならば考慮の余地はあったかもしれないが、どのような関係であれ身近な人間の危機に黙っていられるような人間であるつもりはない。語られた理由が本当ならば、両方に危害を加えるなどという事態にはなりえまい。ならば心得がある側が抗うのが最良。残念ながら恐怖に怯む余裕はなさそうだ。

 本当に気乗りしない様子で、問答していた男が溜息をつく。そして懐から何やら黒い筒を取り出し、両端を手にして半分に分解するように引っ張った。

 

 現れたのは冷酷な鋼色。片刃の短剣の刀身。生物を刈ることに特化した暴力の権化。

 

「抵抗の意志が弱い女の方を確保する。男の口は封じろ」

 放たれる命令。受けた全員が倣うように武装する。明確な殺意の表れ。

 竦めば、殺られる。

(上等だ)

 集団でないこちらの方が初動が早くなるのは必定。既に選択していた手を打つ。

 先攻は貰った。

 

 *

 

 投擲。

 短剣を持つ手から目の前にいた二人の男がどちらも右利きであることを確認すると、手にしていた折り畳み傘を向かって右側の男の顔面に投げつける。

 同時に脇に立っていたユリアの腰に手を回し、その身を抱えて駆け出した。勝手に荷物扱いされてご不満な点もあるだろうが、今は堪えてもらう他にない。

 駆ける先は今傘を投げつけた右側の男のさらに右側。

 右利きの人間ならば、何らかの要因で注意を逸らされれば左側への反応には遅れが生じる。傘への対応は回避か或いは防御か、最悪でもこの位置取りならば斬撃が放たれることはない。命中してくれれば儲け物。

 男が回避した傘がそのまま飛んでいき、床タイルに落ちてカシャッと音を立てる。続くようにアステガがその横を走り抜けた。思惑通り、反応が遅れた男はアステガの脱出を許してしまう。

 離脱成功。

 挟み撃ちという配置上の不利。四対一という数の上での不利。防衛する対象がいるという立場上の不利。一つであっても致命的な不利が三つも同時に存在する状況。これは各人の実力がどうであっても人間対人間の戦いをするならば容易に覆せるアドバンテージではない。

 なればこそアステガに許された行動は『不意打ち、ハッタリなどを用いてこの状況から逃亡する』という一択であった。これが失敗に終われば早速詰みが確定し、嬲り殺しにされる未来が確定していたであろう。

 最悪の未来を一先ずは回避できたことにアステガは一瞬安堵するが、未だ状況は予断を許さない。三つあった不利のうち、消えたのは配置上の不利のみである。

 走る。振り返らずに走る。走りながら周囲を見渡し、『あるもの』を探す。いくらユリアが軽く、抵抗しないとはいえ人を一人背負っている人間がいつまでも大の大人から逃げていられるわけはない。

 銃撃の心配は無用。相手の恰好を一通り見たところ仮に銃を持つには拳銃以外にはありえない。ならば逃げ続けている限り、確保したがっているユリアへの誤射を恐れて撃てはすまい。

(ここだ……!)

 探していた『あるもの』──商店街の店と店の間の狭い路地裏を見つけたアステガはそこの奥へと駆け込んだ。アーケード屋根が頭上から消え雨が容赦なく体を打つ。街灯の光が隙間から漏れるようにしか届いてこなくなり、辺りががらりと暗くなる。

 この幅では一度に何人も入っては来れないだろう。これで数の上での不利は消える。

 すぐさまユリアを地べたへ放り、入ってきた方へと向き直る。一瞬一秒ですら惜しいこの状況では優しく降ろしてやる余裕さえない。

 思っていた通り、自分達を追ってきた男がすぐに路地裏へと入ってくる。片手に刃物を携えて、アステガを殺し、ユリアを拉致するために、向かってくる。

 幸い、自分を挟んで後ろ側にユリアがいるこの配置ならば防衛を気にする必要もないだろう。不利の内の最後の一つが消える。

 先も言った通り人を一人背負っていつまでも逃げられるわけはない。そして誰かに助けを求めるにはこの時間とこの天候は些か都合が悪い。

 つまり──戦って生き残る以外に道はない!

 

 *

 

 目を狙い放たれた刺突を回避する。

 短剣対徒手のマッチアップにおいて最も問題となるのは『リーチの差』である。誰もが真っ先に思い浮かぶだろう『殺傷力の差』も確かに存在するが、比すればこちらはそこまで問題ではない。

 両者の体格によほどの差がない限りは身幅分短剣を持つ者の方がリーチの面で優位に立つ。たかだか短剣の刀身分と侮るべからず。その差が絶望的と言えるほどの不利なのだ。

 互いが互いの命を奪おうとする、ルール無用の殺し合いの場においては一度の有効打が勝敗を分かつもの。その中で単純に両者が同時に攻撃を放った場合、リーチが長い方の致命打の方が先に入ると言えばどれほどの差かわかりやすいだろうか。

 軽量が故、徒手と扱う動作に然程差がない……言い換えれば『そのスタイルを選んだ場合の優位性がほぼ同じである』短剣という武装が相手だからこそ、徒手の側がその差を覆すのは容易ではない。

 空を突いた刀身が、回避した顔面に刃を向け追尾する。後方へ仰け反って回避。前髪が少し切れて落ちる。明らかに初太刀と同じく目を狙っての斬撃。

 もう一つの無視できない問題がこれだ。格闘と違って短剣による刺突には引き斬るという次がある。

 例えば打撃を放った拳は元の構えに戻すまで次の打撃は放てない。しかしその元の構えに戻すという動作すら刃物は攻撃に変えてしまうのだ。

 それはつまり攻撃する機会に単純に倍の差があるということ。

 ちなみに前述した『リーチの差』をひっくり返せる蹴りを迂闊に放てないのはこれが原因である。攻撃される機会が倍あるということは脚部のリソースをそれだけ回避に割かなければならないということだ。

『リーチの差』と『攻撃機会の差』。この二つの差は有利な側にローリスクで休みなく攻撃を与える自由を齎す。

 刺突、斬撃、刺突、斬撃と休む間もなく繰り返される必殺の嵐をアステガはただ回避し続けるしかない。

(このままじゃジリ貧。だが……!)

 回避し続けるしかないが、それだけでは勝ちはない。反撃の機会を待つ。

 命のやり取りという極限状況にあって攻撃が当たらないという事実は相当なストレスのはずだ。

 回避された分だけ疲労は募り、神経は擦り減り、戦闘は長引く。加えて、攻撃し続けていることで実感する優位とそれによる興奮も精神を蝕んでいく。

 それらは必ず人間の思考を正常ではいられなくしていく。厭い、逸り、侮り……そうした心の動きはいずれ必ず攻撃を感情任せで雑なものにする。その瞬間こそが攻勢に出る好機。見逃さないためにも今は待つ。待ちつつ、自分を狙う刃から目を逸らさない。

 当然だが、この心理の問題は逆の立場でも同じこと。寧ろ防御する側の方こそ苦しいはずだ。人間の集中はそう長く続くものではないが故。

「……ッぜえな。このッ!」

「!」

 だからこそ、これは僥倖。

 痺れを切らしたのか男は悪態をつく。その際の攻撃動作だけがやけに大振りになった。短剣を持った右腕を振りかぶる。

 これまでの傾向と切っ先の向いた方向からして恐らくまた頭部狙いの刺突が来る。

 ならばその凶刃が放たれる前に懐に飛び込んでカウンターの打撃を顎に叩き込む──!

(今ッ!)

 相手が刃を突き出すタイミングを見計らい、それと同時にアステガは前身を屈めながら右脚を前に踏み込む。狙い通り、短剣は頭上の無を突いた。回避成功。そしてここまで距離を詰めれば短剣の間合いの内側。

 攻守が交代する──否、カウンターは攻撃する瞬間の虚を突く必倒の一撃。回避も防御も叶わない!

 踏み出した右足で体を支え、今、無防備な顔面目掛け左拳を放────

 

 無い──?そこにある筈の頭が?

 

 困惑。しかし同時に視界の端に何か翻るものを捉えてアステガは察する。

(読まれた!?いや──『誘われた』!?)

 今の悪態も大振りな攻撃も、守勢に徹していた敵を攻勢に転じさせるための演技だったとしたら?

 加えて今まで執拗に頭部を狙って放ってきた刺突も、剣閃を敵の目に慣れさせることでこの誘いの成功率を上げるための布石だったとしたら?

 最初から予測されていたカウンターが成立する筈はない。アステガの拳打は虚しく空を切る。

 ではこの誘いの狙いは何なのか。それは考えるまでもない。

 アステガが誘いに乗って攻撃するため前へ出ると同時に、相手の男もまた刺突の勢いそのままに地を蹴り、すれ違った。今アステガの目に辛うじて映った『翻るもの』とはその残像に他ならない。

 結果、ユリアを背にして護り、多勢に対し地形を利用してタイマンの形を作っていたアステガは後ろをとられた。つまりは再びの挟み撃ちの完成である。その上ただでさえ人間にとって絶対の死角である背後を、今まさに無防備に晒してしまっている。

 この四面楚歌を作ることこそ、敵の本当の狙いだったのだ。

(クソが……ッ!)

 次に放たれる背面からの一閃、正面より迫りくる今まで控えていた二人目の敵の凶刃。アステガがこの窮境を切り抜けるためには、反撃に出たことで崩れた体勢でその前後からの一斉攻撃をどちらも防がねばならない。

 それは人間が成せる業ではない。もはや敗北──即ち死は決定的。

 

 しかし──それは『防ごうとする場合』の話。

 

 *

 

「申し訳ないとは思うけど、君には強くなってもらわなくてはならない」

 齢が十を迎えたあたりから、アステガはアヅキから戦う力を仕込まれた。

 ひと月にたった一度の稽古。それ以外は与えられた課題の通りに独りひたすら自主鍛錬する毎日。

 子供の精神力では到底続かないだろうそれを、彼は泣き言一つ言わずにこなし続けた。

 いや、或いはそれは若さ特有の純粋さが原動力となった結果なのかもしれない。

 なにせその修練の日々こそ、彼にとって数えるほどだった親が進んで与えてくれた贈り物だったのだ。

「こんなもの、使う機会が来ないならそれが一番いいんだけどね」

 

 *

 

 短剣が地に落ちる音がした。

 持ち主である男は、勝利を確信したまま意識を閉じていく。壁に後頭部を叩きつけられて、『何故?』と疑問を持つことはおろか自分の現状を認識することすらできないまま。

 対するアステガは博打同然の攻撃が成功したことを確信した。背中に──人間にとって絶対の死角であるはずの背中に──確かに敵に衝撃を与えたという手応えを感じる。

 鉄山靠 ─テツザンコウ─

 腰を落とし、踏み出した脚で対象の体勢を崩しながら背中で体当たりを放つことで相手を叩き飛ばす。アヅキ直伝の技。

 今回は咄嗟のことで体当たりのみを放ったものだったがそれが功を奏した。短剣の切っ先がアステガに向けられる前でなければ却って自殺行為だったろう。

 即座にアステガは振り返る。そして今吹き飛ばした男の胸倉を掴んで引き寄せた。抵抗が無い。落ちている。

「ッラァ!!」

 意識を失っているのを確認すると、その身体を力任せに路地裏の出口の方へと放り投げた。つまりは挟み撃ちにしようと、加勢に来ていた二人目の敵に向かって。

 路の狭さがその投擲を不可避にする。投げつけられた仲間の身体を、その男は受け止め支えることしかできない。少なく見積もっても60kg超の物体だ。よろめかずにはいられまい。

 予測した通りに直撃し、重なりふらつく二つの人体に向かい、アステガは一足飛びで距離を詰める。

 纏めて倒す好機。今すぐ、即、確実に渾身の一撃を。

 腕を振りかぶる暇さえ惜しい。飛び込んだ勢いそのまま、拳を出して敵の身体へ捻じ込み、踏み込んだ脚を伝い地から走る衝撃と、自分の持てる重さの全てを──叩き込む!

 寸勁 ─スンケイ─

 

 *

 

「……この二人を同時に相手取って無傷とは驚きだ。大したヤツだな、君は」

 商店街のタイルの上に倒れて動かない二人の仲間の姿を見て、先程四人の内で指示役をしていた男がアステガに言った。

 対して屋根に守られず雨ざらしになっているアステガは残存する敵二人を油断なく睨みながら構えを解く。張り詰めた精神が、あるはずの雨音を無音にしている。

 集団の半数が行動不能という状況。それは全員が揃って撤収することが可能なギリギリのライン。仮にまだ戦闘を続けてこれ以上損害が出れば捕縛者を出すことになる。これは敵の四人組にとって最悪のケースだろう。夜中、雨中、人気のない場所という条件を選んで襲ってきていることから彼らが人目につくのを望むはずがない。

 だからこそ攻撃ではなく言葉を放ったのは、相手へのこれ以上継戦は望まないという意思表示だった。

 これを理解したアステガもまた、追撃する意思を持たない。

 戦ってわかった。情を一切挟まない剥き出しの殺意、立ち合いの中での駆け引きの巧さ。敵は全員戦い慣れしている人間。

 そんな集団を相手に単独で全滅させられると思うのは蛮勇でしかない。

 また、撤退を申し出ている相手に対し今ここで追撃の意志を示せば残りの二人はまず間違いなく死に物狂いで自分を潰しにかかってくる。そうしなければならない理由は今述べた通り。

「退かせてもらうが、いいかな。尤も君はその路地から動けないだろうが」

「……チッ」

 さらに言えば指摘の通り、追撃するという行為はそのまま狭い路地裏というアステガにとって有利な地形を放棄することを意味する。今の辛勝もこの条件を利用した上で分の悪い賭けに勝って掴んだもの。それを放り捨てて眼前の二人を同時に相手取った場合──どうなるかは、火を見るよりも明らかだ。

「行けよ」

「喜べ、この場は君の勝ちだ。……惜しいな、こんな能力ある若者なら是非我らの国に欲しいんだが」

「ここで終わりにするか?」

「それは困る。ではな。君とはいずれ、再び見えよう」

「どうせならそうしろ。いらねえ荷物が無くて済む」

 虚栄混じりの安い挑発を一笑に付すと、男はアステガに背を向ける。

「撤収だ。私はミンを運ぶ。カイムは頼むぞ」

「了解」

 動けない仲間の身体を支えて去っていく敵の背を、アステガはただ黙って見ていることしかできない。

 その姿が闇の中に消えてからもしばらくは警戒を解けなかった。

 初めての命懸けの戦い。間違いなく直面した死の気配。

 生き残ったことを自覚してようやく実感したその余韻が、緊張が、なかなか消えてくれず、冷めるのを待つようにただ雨の中佇む。護っていたユリアという人間のことを思い出すことができたのはしばらく経ってからだった。

 打って変わって、雨音が耳に響く。黒く染まった曇り夜空を見上げ、一度深呼吸をする。

 

〈商店街側の路地裏〉

 少しの間、耳に届く情報が雨音だけになった。

 数多の水滴が容赦なく体を叩いている。今日の為にと用意した服も、整えた髪も、冷たく塗らされ台無しになってしまったことに気づく。

 アスファルトにへたり込んで、怯えから顔を上げることさえできないでいた自分に一人分の足音が近づいてきた。

「行くぞ。立てるか?」

 聞きなれた、遠慮のない声。それを耳にしただけでユリアは理解する。あんな危機と戦ったあとでもアステガの在り様は不自然なほどに普段と変わらない。

 怯えも冷たさも幾分か和らいだのを感じた。そうして安心と冷静さを取り戻していく心は、しかし同時に憤りに蝕まれていく。それは、アステガが平然としたままでいられる程度の恐怖にも、危険が去ったことによる安心にすらも塗りつぶされて忘れてしまいかけた自らの恋心に対する『この程度の想いだったのか』という自虐を帯びた憤り。

 今の自分は恋の終わりに沈んでいるべきなのに、そんなロマンチシズムに浸ることさえ許されない。瞼と鼻が熱い。息苦しい。喉が痛い。それらが恋とは全く関係ない感情から生じている事実に腹が立つ。

 それを齎した今の不審者共も、目の前のこいつも、ただムカついて仕方ない。

「おかしいでしょ」

「あ?」

「普通怖がるところでしょ。何で平気なの?」

「ビビってどうなる」

「どうかしてる。お前おかしいよ」

「喧嘩売ってんのか」

「そうでなきゃ、お前がおかしいんでなきゃ何もできなかった私があんまりに惨めでしょうが」

「……?」

 口から出る言葉が支離滅裂だとわかっていても処理しきれない心のままに責めてしまう。一度漏れ出たぐちゃぐちゃな感情は引っ込めることも蓋をすることもできなかった。八つ当たりをしている自分を正しく認識したくない。

「何もできなかった。今日なにもしてない、私」

「言いたいことがあるならわかるように喋れよ」

「あ────」

 促されてハッとした。こんな簡単に本心を話そうとしている?想い人相手にさえずっと言えなかった心を、アステガに対してはこんなにあっさりと?

「──ッ!あんたに話すことなんかないっての!ああもう、なんで今更!今じゃないでしょう!」

 怒りをぶつけているつもりがその実、ただ甘えているだけだった。その自分でさえ自覚していなかった事実を突きつけられたことで精神は錯乱に近くなる。

 こんな奴に気を許すつもりなんてなかったのに。本当に心を開きたい相手は別にいるはずなのに。望みの在処はわかっているのにどうしたってそこへ転がらない。その自分の無軌道を嘆くように不満を空に投げる。

 怒声で意味のない誤魔化しをする自分がみっともない。恥ずかしい。でもやはり止めることは叶わない。こんな姿を見ないでほしい。いっそこの理不尽に怒ってどこかへ行って。いっそそうして独りにして。そうすればこんな嫌な甘え方なんてしなくて済むんだから。

「あんた見てると自分が惨めになってくる!もうほっといてくれない!?」

「テメェどうかしてる自覚があるな。そんなで放っとけると思うか?無理だろうが」

「くそっ!くそくそくそ!」

 失恋も死への恐怖も過ぎ去って心に残ったのがこんなものであることが情けなくて、最後にはもう無意味に毒づくことしかできない。

 身体を起こすこともせず膝を抱えて顔を伏せて、雨に打たれ続ける。このまま溶けて消えてしまえればどんなにいいだろう。

 もう話にならないと判断したのか、アステガは少し離れて誰かと電話で話し始める。

 その声に心細さを感じてしまった自分も気に入らなかった。

「──くそっ……」

「──ええ、すみません。シフトの埋め合わせについてはまた。はい。失礼します」

 自分の中身が、気に入らないものだらけだった。

「おい、いつまでそうしてる」

「知らない」

「どこまでガキなんだ」

 

〈オウカ町内 高層ホテル・エレベーター内〉

 アステガと戦い、敗走した四人は拠点としていたホテルへと戻っていた。

 濡れ鼠となった男四人をエレベーターは高層へと運んでいく。ガラス越しに映る街並みの灯は下へ下へと墜ちていく。

 その遠くなっていく光を、リーダー格である一人が窓から眺めていた。

「やはり不意打ちで攫うべきだったな」

 唯一無事だった仲間の一人の言葉が背後から聞こえる。責めるでもなく、落胆を色に出すこともなく。こうして目的としていた男どころか、その為に確保しようとした人質にすら返り討ちにされた今、返す言葉もない。

『やはり』という言葉通り、元々はそうするつもりだったのだ。

 人を攫おうとする以上、どんな方法を取ったところで自分達の行いが汚い行為であるという事実が変わることなど決してないことは理解していた。

 それでも、国で自分の帰りを待つ弟妹が同じ年ごろだったからと情が沸いた。大人しく従ってくれていれば、本当にあの二人に危害を加えるつもりはなかったのだ。

 元々この作戦に気乗りしていなかったのか、自分の心情を慮ってくれたのか、仲間は突然の作戦変更に何も言わずに従ってくれた。

 その結果がこれである。故郷の国に忠誠を誓い、使命を帯びた人間として失格だ。

「あとは俺たちに任せて少し休め。……お前は甘すぎる」

 仲間は言葉を続ける。無茶に付き合わせてしまったのに。その温情に満ちた言葉が──

 

「そうだ、君は甘すぎる。

そのおかげで僕は助かったわけだが」

 

 ふと、聞き覚えのない声がした。

 待て、それはおかしい。

 確かにこのエレベーターは自分達四人しか乗せていなかった筈で、

 一階で空だったのを確認してから乗り込んで、それから一度も止まることはなかった筈で、

 振り返ろうとした足が、べしゃっ、と水を叩くような音を立てた。

 

 赤。

 

 目に飛び込んできたのは赤、赤、赤。

 

 エレベーター内の天井、壁、床、至る所が赤く染まっている。

 目も眩むような赤の中、足元を見れば、先程まで仲間だっただろう首無しの死体が三つ。 それらを見て、赤の正体が彼らの血であることにようやく気がつく。

 代わりに立っている人間らしい影は一つだけ。

 赤のまだらに彩られた影。そのまだらは返り血によるものらしい。一瞬、それが人間だとわからなかった。

 

 馬鹿な。ありえない。

 

 このエレベーターに潜入しているのはまだいい。だがあの作戦からまだ一時間も経っていないのにもう刺客が放たれるなどは。

 まさか、これがこの国に存在するという異能の──

 

「だから、その甘さに免じて君だけは少しはマシな最期にしてあげようと思ってね」

 

 向かい合っていた影はそう言って、手にした長剣の刃を──ああ、これもまたひどい赤に汚れている──自分の首のすぐ横に運ぶ。

 

「神に祈る時間くらいはあげよう」

 

 冷たすぎるその言葉に、男は悟る。

 抵抗は許されない。狼狽は許されない。希望は許されない。怨嗟は許されない。

 自分はここで終わるのだと悟る。そして男はまだらの影を──その覚えのある顔を真っすぐに見て言う。

 

「祈る神などいない。それは君がよくわかっているはずだ」

 

「そうだったね」

 

 上昇を続ける小さな箱に、ゴト、と重いものが落ちる音がした。

 

 指定された階にエレベーターが到着した。外側、無人のフロアにそれを告げるチャイムが優しく響く。

 扉が開く。向こう側には血塗られた地獄が広がるばかりで、人と呼べるものは誰一人として存在しなかった。

 

 重い扉が閉まっていく。

 

〈翌日の朝刊〉

 高級ホテルのエレベーター 4人の遺体

 ××月××日××時頃、クランリリー領オウカ町内の某高級ホテルより「エレベーターに首無しの死体が転がっている」という通報が──

 ──ホテルの監視カメラもデータか機材そのものが破壊されており、現場を確認する方法が無く──

 ──予約に使用された個人情報を使って捜査するも四名の遺体の身元は未だ不明であり──

 ──この殺人の犯人の手掛かりは未だ掴めておらず、警察は捜査を継続しています。

 

第二話 終

 

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